裏本とは何だったのか?昭和のアンダーグラウンド出版史と禁じられた紙の記憶

裏本という言葉には、妙な湿度がある。

ただの成人向け出版物というより、表の本屋で堂々と売られるものではなく、誰かがこっそり作り、誰かがこっそり売り、誰かがこっそり買っていた紙の文化。そこには性表現そのものだけでなく、検閲、摘発、流通、欲望、好奇心、そして昭和の男たちの妙なソワソワまで詰まっていた。

今の感覚で見ると、裏本はかなり古いメディアだ。ネットを開けば、昔なら到底流通できなかったような映像や画像がいくらでも見られる。けれど、だからこそ裏本の歴史には、今とは違う重みがある。

データではなく紙。検索ではなく人づて。クリックではなく購入。
その面倒臭さ込みで、裏本は裏本だった。

この記事では、いわゆる「裏本ブーム」だけでなく、戦前から昭和後期まで続いたアンダーグラウンド出版の流れとして、裏本の歴史を整理していく。

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裏本とは何だったのか

裏本は、概念をざっくり言えば「表の流通に乗りにくい成人向けの本」だ。


もっと直球で言えば「性器が丸見えのエロ本」である。

ただし、この言葉はかなり幅が広い。時代や語る人によって、指しているものが少し変わる。

たとえば、戦前から戦後にかけての性風俗読本や艶っぽい読み物を「裏本」と呼ぶ場合もあるが、昭和後期の文脈では、一般の書店で普通に売られない成人向け写真集、奥付が曖昧な小冊子、法的に危うい表現を含む出版物を指すことが多い。

つまり裏本は、単なるジャンル名というより「表に出せない本」の総称に近い。

そこには三つの特徴がある。

  • 誰が作ったのか分かりにくい
  • どこで売られているのか分かりにくい
  • そもそも法的に売ってはいけない内容の場合がある

この「分かりにくさ」が、裏本をただの本ではなく、ひとつのアンダーグラウンド文化にしていた。

内容が過激だったから売れた、というだけでは少し足りない。むしろ、表の世界から半歩ずれた場所にあるものを手に入れる感覚。そこに妙な興奮があった。

戦前のエログロ文化から地下出版は始まっていた

裏本の歴史を昭和後期だけで見ると、少し見誤る。

日本にはもともと、表の出版文化とは別に、性、猟奇、風俗、怪談、犯罪、奇妙な人間心理を扱う出版物の流れがあった。大正末期から昭和初期にかけてのエログロナンセンス文化も、そのひとつ。

当時は、性的な題材だけでなく、倒錯、猟奇事件、奇人変人、社会の裏側を扱う読み物が一部の読者を引きつけていた。もちろん、今のように何でも自由に出せたわけではない。発禁、検閲、摘発のリスクは常にあった。

ここで少しだけ、横道にそれる。

今の感覚では、与謝野晶子の本を「危ない本」と呼ぶ人はほとんどいない。『みだれ髪』も『君死にたまふことなかれ』も、いまでは文学史の中で語られる作品だ。

けれど、時代が変われば本の見え方も変わる。

『みだれ髪』は、若い女性が恋や身体感覚を自分の言葉で歌ったことで、当時の道徳観から激しく批判された。一方で『君死にたまふことなかれ』は、戦地へ向かった弟に「死なないでくれ」と呼びかけた詩だった。今なら自然な祈りにも見えるが、戦争へ向かう時代の中では、それすら危険な言葉として扱われる。

与謝野晶子の本を持っていた少女が、特高にひどい目に遭わされたという話も残っている。細部まで確実な史実として断定するのは避けたいが、少なくともそういう話が成立してしまう時代の空気はあった。


つまり、裏本とは必ずしも裸の写真が載った本だけを指すわけではない。


時代によっては与謝野晶子の本は裏本のような扱いを受けていたのだ。

ある時代の権力や世間が「これは表で読ませたくない」と感じた瞬間、その本は半分だけ裏側へ押し込まれる。
与謝野晶子の本でさえ、時代によっては危ない本になる。

そう考えると、裏本の正体は中身の過激さだけではない。
その時代が何を怖がり、何を隠そうとしたのか。そこまで含めて、裏本という言葉は少し薄暗く光っている。

だからこそ、作り手は表現をぼかし、名義を変え、形を変えながら出版を続けた。

この時点ですでに、裏本的な文化の原型はできている。

堂々と大通りに店を構える出版ではない。路地裏で、名前を変えながら、何度も出ては消える出版。中身も怪しいが、作り方そのものがもう怪しい。

裏本は、いきなり昭和のエロ本屋から湧いて出たものではない。戦前の猥雑な読み物文化、検閲とのいたちごっこ、そして「禁止されるほど読みたくなる」人間の性分が、地下でずっとつながっていた。

戦後のカストリ雑誌が広げた性風俗出版の土壌

戦後になると、地下出版の空気は一気に変わる。

焼け跡、闇市、貧しさ、占領、紙不足。社会全体がぐちゃぐちゃになったところへ、大衆娯楽雑誌が大量に出てくる。いわゆるカストリ雑誌だ。

カストリ雑誌は、粗い紙に印刷された安価な娯楽雑誌で、性風俗、猟奇、犯罪、告白、奇談などを扱った。今の感覚で言えば、週刊誌、実話誌、風俗誌、怪奇本、ゴシップ誌がごちゃ混ぜになったような存在。

ここで重要なのは、カストリ雑誌が単なる下世話な読み物ではなかったことだ。

たしかに、エロや猟奇を売りにした粗雑な雑誌も多かった。けれど一方で、戦時中に押さえつけられていた表現への反動もある。きれいごとではない人間の欲望、戦後の生活の荒れ、性風俗の現実、そういうものが紙面に流れ込んだ。

戦後すぐの読者は、上品な文化論だけを求めていたわけではない。もっと生々しいもの、もっと今の生活に近いもの、そして少し後ろめたいものを読みたかった。

この流れが、後の裏本文化の土壌になる。

戦前のエログロ文化が「地下の源流」だとすれば、戦後のカストリ雑誌は「大衆化した猥雑さ」だった。裏本は、そのさらに奥へ潜っていく。

昭和後期に裏本がブーム化した理由

昭和後期、特に1970年代後半から1980年代前半にかけて、成人向け出版物は大きく膨らんでいく。

背景には、いくつかの要素があった。

まず、雑誌文化そのものが強かった。テレビはあっても、ネットはない。映像メディアも今ほど個人の手元にない。欲望も情報も、かなりの部分を紙が引き受けていた時代だ。

次に、成人向け写真やグラビアへの需要が大きかった。読者は、文章だけでなく写真を求めるようになる。紙の質、印刷、写真ページの見せ方も変わっていく。

そして、流通の問題。

普通の取次を通して全国の書店に並ぶ本には、当然ながら限界がある。危ないものは扱いにくい。そこで、直販、特価本ルート、古本屋、風俗街周辺、怪しい販売業者、自動販売機など、表の出版流通とは違うルートが意味を持った。

裏本は、この「表に置けないが、欲しい人はいる」という隙間に入り込んだ。

しかも、裏本は数が限られている。どこでも買えるわけではない。誰でも知っているわけではない。
この希少性が、さらに欲望を煽った。

今なら検索すれば一瞬で似たようなものにたどり着ける。だが当時は違う。情報の入口そのものが限られていた。どこで売っているのか、誰が持っているのか、どの店の奥にあるのか。そういう噂込みでひとつの文化だった。

裏本ブームとは、出版物のブームであると同時に、「隠されたものを探す行為」のブームでもあった。

自販機本、ビニ本、裏本は何が違うのか

裏本の話をすると、自販機本やビニ本も混ざりやすい。

この三つは近い場所にあるが、同じものではない。

自販機本は、主に成人向け雑誌を自動販売機で売っていた文化を指す。夜になると妙に明るく浮かび上がる、あの怪しい箱。人と顔を合わせずに買えるという点で、当時の読者には大きな意味があった。

ビニ本は、ビニールで密封された成人向け本のこと。中身を確認できないからこそ、買う側の想像が膨らむ。袋に包まれているだけで、なぜか危険なものに見える。今思うとかなり単純な仕掛けだが、当時の売り場では強かった。

裏本は、そこからさらに奥にある。

自販機に入っているから裏本、ビニールに包まれているから裏本、というわけではない。裏本はもっと曖昧で、もっと非公式なものだ。販売ルート、奥付、内容、扱われ方。そのどれか、あるいは全部が表の世界から外れている。

簡単に整理すると、こうなる。

  • 自販機本
    売り方が特徴。人目を避けて買える成人向け雑誌文化。
  • ビニ本
    包み方と売り場の演出が特徴。中身が見えないこと自体が商品価値になった。
  • 裏本
    存在そのものが表に出にくい本。流通、内容、作り手の匿名性まで含めて地下性が強い。

この違いを押さえると、昭和の成人向け出版文化が少し立体的に見えてくる。

読者は単に「過激な本」を求めていたわけではない。買い方、隠し方、手に入れ方まで含めて、ひとつの体験になっていた。

摘発と規制の中で、裏本はさらに地下へ潜った

裏本や自販機本、ビニ本の広がりは、当然ながら社会問題にもなった。

青少年への影響、有害図書指定、書店や自販機への規制、出版業界の自主規制。成人向け出版物をめぐる締め付けは、昭和の後半にかけて強まっていく。

ただ、規制が強まると消えるかというと、そう単純でもない。

表の流通で扱いにくくなるほど、地下のルートに価値が出る。摘発されるほど、逆に「そこまでして見たいものなのか」という噂も立つ。もちろん違法なものは違法だが、文化史として見ると、このいたちごっこそのものが裏本を裏本らしくしていた。

ここが、今のネット時代とはかなり違う。

現代の違法コンテンツは、コピーされ、拡散され、削除されてもどこかに残る。だが紙の裏本は物として存在していた。燃やせば消える。押収されれば消える。隠せば残る。誰かの押し入れ、古本屋の奥、倉庫の段ボールに眠る。

その物質感が、裏本の記憶を妙に濃くしている。

ページをめくる音、紙の匂い、印刷の荒さ、表紙の安っぽさ。
中身以前に、存在そのものがもう昭和だった。

アダルトビデオの登場で紙の時代は終わっていく

1980年代に入ると、成人向けメディアの主役は少しずつ変わっていく。

大きかったのは、アダルトビデオの登場だ。

それまで紙が担っていた欲望のかなりの部分を、映像が奪っていく。写真や文章で想像していたものが、動く映像として見られるようになる。これは強い。紙のエロ本にとって、かなり厳しい変化だった。

もちろん、すぐに紙が消えたわけではない。雑誌、写真集、グラビア、漫画、実話誌はその後も残った。けれど「裏本を探す」という体験は、ビデオ、DVD、そしてネットへと徐々に置き換わっていく。

メディアが変わると、興奮の形も変わる。

現代では、あまり大きな声では言えないが、インターネットさえあれば高画質の無修正動画まで手軽に見られてしまう。利便性で言えば、圧倒的に現代に軍配が上がる。検索して、開いて、すぐ見られる。早いし、軽いし、隠すのも簡単だ。

ただ、手にした瞬間の気分の高揚で言えば、もしかしたらあの頃の方がはるかに上だったのかもしれない。

裏本の時代には、手に入れるまでの距離があった。店に行く、人目を気にする、噂を頼る、紙袋に入れて持ち帰る。そうした一連の面倒臭さが、妙な熱を生んでいた。

アダルトビデオ以降、その距離は縮んでいく。ネット時代になると、さらに一気に消える。

便利になった。
ただ、その代わりに、あの「持って帰るまでの緊張感」はなくなった。

裏本の歴史を振り返るとき、懐かしがるべきは中身そのものではないのかもしれない。むしろ、情報にたどり着くまでの不自由さ、紙を持つことの重さ、買う瞬間の後ろめたさ。そこに、今では再現しにくい昭和の感触が残っている。

裏本はなぜ今も語られるのか

裏本は、表向きには褒められた文化ではない。

違法性の問題もある。搾取や被害につながる領域もある。過去の出版物だからといって、全部を雑にノスタルジーで包んでいいわけではない。

それでも、裏本の歴史が今も語られるのは、そこに日本の出版文化の裏側がはっきり出ているからだ。

出版は、いつもきれいな本だけで成り立ってきたわけではない。文学、漫画、週刊誌、実話誌、風俗誌、写真集、違法出版、古本屋、取次に乗らない流通。表の文化と裏の文化が、かなり近い場所で絡み合っていた。

しかも、裏本の周辺には、昭和という時代の空気が濃く残っている。

人に見られたくない本を買う恥ずかしさ。
買った後、妙に急ぎ足になる感じ。
紙袋の中身がやたら重く感じる帰り道。
家族に見つからない場所を探す小さな知恵。

そういう情けなさまで含めて、裏本はひとつの時代の記憶になっている。

今は何でもスマホの中に入る。誰にも見られず、音もなく、重さもなく、すぐ消せる。便利ではある。でも、あまりにも手軽すぎて、記憶には残りにくい。

裏本はその逆だった。
不便で、危うくて、後ろめたくて、物として邪魔だった。

だからこそ、妙に忘れにくい。

あとがき

裏本の歴史は、ただのエロ本史ではない。

そこには、戦前のエログロ文化、戦後のカストリ雑誌、昭和の出版流通、自販機本やビニ本の売り方、規制と摘発、アダルトビデオの登場まで、かなり多くのものが絡んでいる。

表の文化史だけを読んでいると、こういうものはだいたい端に追いやられる。きれいな文学、名作映画、正史として語りやすい出版物の陰で、怪しい本たちはひっそり積まれていた。

でも、人間の欲望はだいたい表通りだけでは収まらない。

むしろ、路地裏や古本屋の奥や、夜だけ光る自販機の中に、その時代の本音が残っていたりする。裏本とは、その本音が紙になってしまったものだったのかもしれない。

今となっては、あの怪しさをそのまま体験することは難しい。
ただ、昭和の地下出版史を眺めていると、紙の本がまだ妙に重かった時代の空気だけは、少しだけ伝わってくる。

手に入れるまでが面倒で、持っているだけで落ち着かない。
それでも、誰かが欲しがった。

裏本の歴史は、そのどうしようもなさの歴史でもある。

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