自販機本とは何だったのか?昭和のバイパス沿いで怪しく光る「欲望の箱」

夜の国道沿い、寂れたドライブインの端、蛍光灯が少しだけチカチカしている小さな小屋。

そこに、妙に派手な色の自動販売機が並んでいた。

ジュースでもタバコでもない。売っているのは、大人向けの雑誌。いわゆるエロ本自販機であり、そこで売られていた本は「自販機本」と呼ばれた。

今ならスマホを開けば、誰にも見られずにいくらでも刺激の強いものへアクセスできる。けれど昭和の時代、そういうものを手に入れるには、もう少し身体を張る必要があった。

人目を気にしながら近づく。小銭を握る。周囲を確認する。ボタンを押す。取り出し口から本が落ちる音に、なぜか心臓が跳ねる。

ただの雑誌を買うだけなのに、そこには妙な儀式感があった。

この記事では、昭和から平成初期にかけて存在したエロ本自販機と自販機本の世界を、出版文化、街の風景、そして少し情けなくて愛おしい男たちの記憶と一緒に振り返っていく。

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自販機本とは何だったのか

自販機本とは、その名の通り、自動販売機で売られていた成人向け雑誌のこと。

ただし、今の感覚で「エロ本を自販機で売っていただけ」と考えると少し味気ない。あれは単なる販売方法ではなく、昭和の街にあったひとつの空気だった。

書店のレジに持っていくのは恥ずかしい。近所の人に見られたら困る。顔なじみの本屋の親父に「ああ、そういうの読む年頃か」と思われるのもつらい。

そんな男たちにとって、自販機はありがたい存在だった。

機械は何も言わない。
目も合わせない。
説教もしない。
買ったあとにニヤつきもしない。

ただ、金を入れると本を出す。

この無言のやり取りが、当時の若い男たちにとっては救いだったのかもしれない。

もちろん、実際には完全に誰にも見られないわけではない。むしろ、ああいう自販機は妙に目立つ場所に置いてあった。国道沿い、空き地の隅、古いゲームセンターの横、ドライブインの裏手、ラブホテル街の入口付近。

「誰にも見られずに買える」はずなのに、そこへ行くまでがすでに丸見え。

この矛盾が、自販機本文化の味わいでもある。

書店では買えない男たちの避難所

昭和のエロ本購入には、独特の心理的ハードルがあった。

今のようにネット注文も電子書籍もない時代。成人向け雑誌を買うには、基本的にどこかへ足を運ばなければならない。

書店で買う場合は、まず成人向け雑誌の棚に近づく必要がある。この時点でかなり勇気がいる。さらに、選んだ雑誌をレジへ持っていく。店員が若い女性だったら最悪。近所の知り合いが後ろに並んでいたら地獄。家族の知人に見られたら、もう人生が終わったような気分になる。

そこで登場するのが自販機。

人間の店員を介さず、無言で買える。これは大きかった。

ただ、自販機には自販機なりの試練がある。

まず、自販機の前に立つだけで「この人、今から買うんだな」と分かってしまう。しかも、選んでいる時間が長いほど恥ずかしい。早く決めたい。でも失敗したくない。小窓に見える表紙の情報だけで、今日の一冊を選ばなければならない。

この状況で、やたら真剣な顔になってしまう。

通りすがりの車のヘッドライトが当たる。
思わず背筋が伸びる。
何もしていないのに、なぜか職務質問された気分になる。

そして、いざ買おうとした瞬間に小銭が足りない。

これもまた昭和。

財布の中を必死で探るが、出てくるのは十円玉ばかり。後ろから誰か来た気配がする。焦る。焦りすぎて百円玉を落とす。転がる。排水溝の手前で止まる。

一冊のエロ本を買うだけなのに、ちょっとしたサスペンスである。



しかもそこには思いもよらぬトラップが仕掛けられていた。


ボタンを押した刹那、闇夜に響くブザー音

自販機本の思い出として、意外と語られがちなのが「音」の問題だ。

人目を避けて、夜道を選び、何度も周囲を確認して、ようやく小銭を入れる。ここまでは自分の中でかなり慎重に進めている。問題はそのあと。

いざボタンを押した瞬間、自販機が思っていたよりずっと大きな音を出す。

ビーッ。
ガコン。
ガチャン。

本人としては、忍者のように近づき、空気のように買い、風のように去る予定だった。

ところが機械のほうは、まるで近所一帯に向けて「今ここで買いました」と知らせるような音を立てる。静かな夜道では、そのブザー音がやたら大きく感じる。実際にはそこまで響いていなかったのかもしれないが、本人の耳には完全に警報レベルで届いている。

遠くの犬が吠えた気がする。
ドライブインの店内から誰かがこっちを見た気がする。
さっきまで存在しなかったはずの通行人が、急に背後に湧いた気がする。

もちろん、実際には多分誰も見ていない。

だが、買っている本人だけは違う。心の中ではもう非常ベルが鳴っている。参考書を詰めたカバンの中に、今まさに人生で最も親に見られたくない紙の束を収納しようとしているのだ。冷静でいられるわけがない。

しかも、商品が落ちる音だけでは終わらない。

釣り銭がある場合は、チャリンチャリンという小銭の音まで追撃してくる。早くその場を離れたいのに、釣り銭を残していくわけにもいかない。取り出し口に手を突っ込み、本をカバンに押し込み、小銭を回収し、何食わぬ顔で歩き出す。

本人は自然に立ち去っているつもり。

だが、たぶん歩幅だけ妙に大きい。

自販機本の緊張感は、買う前だけではなかった。
本当に心臓に悪いのは、ボタンを押した後だったのかもしれない。

瓶底メガネの浪人生と、夜の自販機

たとえば、こんな男がいたとする。

ガリガリに痩せていて、分厚い瓶底メガネ。髪は少し伸びっぱなし。服装は母親が買ってきたような地味なチェックシャツ。大学にはまだ受かっていない。予備校帰りのカバンには、英単語帳と赤本が入っている。

本人としては真面目に生きている。
だが、真面目に生きているからといって、欲望が消えるわけではない。

夜、自転車をこいで帰る途中、彼は例の自販機の前でスピードを落とす。

最初の日は通り過ぎるだけ。
二日目も通り過ぎるだけ。
三日目は少しだけ横目で見る。
四日目に、ついに自転車を降りる。

自販機の前に立つと、急に世界が静かになる。

車が通るたびに、彼は参考書を読んでいるふりをする。いや、夜の道端で参考書を開くほうがよほど不自然なのだが、本人は必死なので気づかない。

小銭を入れる。
ボタンを押す。
ガコン、と音がする。

その瞬間、彼の中で何かが大人になった気がする。

手に入れた本は、古新聞に包んでカバンの底へ。帰宅後、親に「今日は遅かったね」と言われて、なぜか「自習室が混んでて」と嘘をつく。

親は何も気づいていない。

しかし本人だけは、ものすごい犯罪を成し遂げたような顔で風呂に入る。

こういう小さなドラマが、自販機本の周辺にはあった。

怪しい本ほど、なぜか文化の匂いがした

自販機本は、ただの成人向け雑誌だけではなかった。

もちろん、基本は大人向けの写真や読み物が中心だった。

けれど、その中には妙にサブカル臭の強いもの、普通の書店では置きづらいような実験的な雑誌、エロを入口にしながら実際には音楽、映画、漫画、思想、怪談、オカルト、若者文化まで混ぜ込んだものもあった。

表紙だけ見ると、どう見ても怪しい。
中身を開くと、もっと怪しい。
でも、その怪しさの中に、妙な熱量がある。

大手出版社の整った雑誌とは違い、ページの作りが荒い。写真も粗い。文章も妙に勢いだけで走っている。だが、そのぶん作り手の悪ふざけや、時代のノイズがそのまま残っていた。

昭和後期から平成初期にかけての雑誌文化には、こういう「ちゃんとしていない面白さ」があった。

誰が読んでいるのか分からない。
誰が作っているのかもよく分からない。
でも、なぜか街の隅で売れている。

今のネット文化にも似た感覚がある。表のメディアには出てこないが、ある界隈では妙に熱を持っている。自販機本は、紙の時代に存在したアンダーグラウンドなタイムラインだったとも言える。

自販機そのものが怪しかった

エロ本自販機は、置かれている場所も含めて妙に記憶に残る。

清潔な駅ビルの中にあるわけではない。コンビニの明るい入口に堂々と置かれているわけでもない。多くは、もう少し影のある場所にあった。

幹線道路沿いの古いドライブイン。
畑と住宅地の境目。
使われているのか分からないゲームコーナーの横。
古びたコインスナックの隅。
夜になると妙に人通りが減る道。

そこに、やけに派手な自販機がぼんやり光っている。

自販機の色は、今見ると妙にかわいい。赤、青、黄色、クリーム色。昭和の機械らしい角ばった形。小さな窓に雑誌の表紙が並び、ボタンの横には値段。取り出し口には無骨なフタ。

だが、近づくと少し怖い。

誰かに見られている気がする。
自販機の裏に人がいる気がする。
そもそも本当に商品が出てくるのかも分からない。

今の自販機は、かなり親切だ。電子マネーが使える。画面が光る。商品写真もきれい。だが、昔の自販機には「機械の機嫌をうかがう」感じがあった。

金を入れたのに出てこなかったらどうするのか。
釣り銭が戻らなかったらどうするのか。
そもそも故障しているのか正常なのか、見た目では分からない。

エロ本を買う以前に、自販機そのものが一種の賭けだった。

小話としての「買ったあと問題」

自販機本には、買ったあとにも問題がある。

まず、どうやって持って帰るか。

普通の雑誌なら小脇に抱えればいい。だが、自販機本をそのまま抱えて帰るのは無理がある。表紙が見えたら終わり。知り合いに会ったら終わり。家族に見つかったら、夕食の空気が変わる。

だから、当時の男たちは妙に工夫する。

学生カバンの底に入れる。
新聞紙で包む。
上に参考書を重ねる。
ジャンパーの内側に隠す。
自転車の前カゴに入れて、上からタオルをかぶせる。

しかし、隠しているものほど目立つ。

妙に膨らんだカバン。
不自然に脇を締めた歩き方。
誰にも聞かれていないのに「いや、これは本屋で買った普通の雑誌で」と言い訳したくなる顔。

本人は隠しているつもりでも、雰囲気がもう怪しい。

さらに大問題なのが、処分方法。

読み終わったあと、家に置いておくのは危険。押し入れの奥、ベッドの下、勉強机の引き出し、百科事典の後ろ。どこに隠しても、母親の掃除能力の前では無力。

捨てるにしても、普通にゴミに出すわけにはいかない。

新聞紙に包む。
別の雑誌に挟む。
夜中にこっそり捨てる。
友人に譲る。
なぜか山に埋める。

この「買う」「隠す」「捨てる」まで含めて、昭和のエロ本文化だった。

今はデータを消せば終わる。だが、紙の本は物体として残る。そこに面倒くささがあり、同時に妙な記憶の濃さもあった。

自販機本はなぜ消えていったのか

自販機本の文化は、時代とともに急速に薄れていった。

理由はいくつもある。

まず、成人向けメディアの流通が変わった。ビデオ、DVD、コンビニ雑誌、専門店、そしてインターネット。人目を気にしながら夜の自販機まで行かなくても、別の方法で手に入るようになった。

次に、街の環境も変わった。怪しい自販機が置かれていた古いドライブインやコインスナックは減り、道路沿いの景色も整理されていった。防犯や青少年保護の意識も強くなり、あの手の自販機は置きづらくなった。

さらに、恥ずかしさの質も変わった。

昔は「買うところを見られる」のが恥ずかしかった。
今は「検索履歴を見られる」のが怖い。

人間の欲望はあまり変わっていない。変わったのは、その欲望にアクセスする道具と、隠し方だけ。

自販機本が消えていったのは、エロが消えたからではない。むしろ逆で、エロがより便利に、より個人的に、より見えない場所へ移動したからだった。

それでも懐かしく見える理由

エロ本自販機は、今の基準で見ればいろいろ問題のある存在だった。

街角で成人向けの雑誌が売られていたこと自体、かなり雑な時代の証拠でもある。管理も今ほど厳密ではなく、青少年が見てしまう可能性もあった。美化しすぎる必要はない。

それでも、多くの人があの自販機を懐かしむのは、そこに昭和の「隙間」が残っているからだと思う。

今の街は、明るくて便利で清潔になった。コンビニはどこにでもあり、スマホで何でも買える。検索すればすぐ分かる。見たいものはすぐ見られる。

でも、そのぶん「怪しい場所に近づく」「誰にも言えないものを買う」「帰り道で妙に心拍数が上がる」みたいな体験は減った。

自販機本は、内容そのものよりも、その周辺の緊張感まで含めて記憶されている。


夜の空気。
小銭の重さ。
ボタンを押す指。
取り出し口の金属音。
カバンの底に隠した雑誌。
家に帰るまでの妙な罪悪感。


それら全部が、ひとつの時代の匂いになっている。

自販機本は昭和の裏口だった


自販機本は、表の文化ではなかった。


学校でも語られない。新聞でも大きく扱われない。親も教えてくれない。だが、確かに街のどこかにあり、多くの男たちがその存在を知っていた。


それは、昭和の裏口のようなものだった。


表通りには映画館、書店、喫茶店、レコード屋がある。
裏通りには、ネオン、古いゲーム機、怪しい看板、そしてエロ本自販機がある。

どちらも同じ時代の一部だった。

きれいに整理された昭和だけを振り返ると、どうしても嘘っぽくなる。昭和には、もっと埃っぽくて、湿っぽくて、説明しづらいものがたくさんあった。自販機本は、その中でもかなり分かりやすい「怪しさの記号」だった。

今となっては、あの自販機の前で挙動不審になっていた若者たちも、すっかりいい年齢になっている。

かつて瓶底メガネで小銭を握りしめていた浪人生も、今ではスマホでニュースを読み、電子書籍を買い、子どもに「変なサイト見るなよ」と言う側になっているかもしれない。

でも、夜道で古い自販機の明かりを見た瞬間だけ、あの頃の心拍数が少し戻ってくる。

何を買ったかより、どう買ったか。
自販機本の記憶は、たぶんそこに残っている。

あとがき

エロ本自販機という存在は、今見るとかなり奇妙だ。

なぜ本を自販機で売るのか。
なぜわざわざ夜の道端に置くのか。
なぜ買う側は、あんなにこそこそしていたのか。

冷静に考えると変な話ばかりだが、その変さが時代の匂いになっている。

便利になった現代では、欲しいものは見えない場所で手に入る。恥ずかしいものほど、スマホの中にしまえる。だが昭和のエロ本は、紙であり、重さがあり、隠し場所が必要だった。

その面倒くささが、妙に人間くさい。

自販機本は、ただの古い成人向け雑誌ではない。人目を気にする若者、雑に作られた怪しい本、夜の国道沿いの蛍光灯、そして何でも機械で売ってしまう日本らしさが混ざった、昭和の珍妙な文化だった。


そんな文化が、今後また街の中に戻ってくることはまずない。

理由は単純で、もう商売として成り立たないからだ。

わざわざ夜のバイパス沿いまで行き、人目を気にしながら小銭を入れて、ブザー音にビクつきながら紙の雑誌を買う。そんな面倒な儀式をしなくても、今はスマホひとつで大抵のものにたどり着ける。

便利になったと言えば、それは間違いなく便利になった。

ただ、その面倒くささ込みで興奮があったのも確かだ。

周囲の人影を気にし、ボタンを押した瞬間のブザー音に肩を跳ねさせ、取り出し口から出てきたソレを懐に押し込む。そして、何食わぬ顔を装いながら、実際にはかなりの早足で家路を急ぐ。

あの一連の流れまで含めて、自販機本だった。

欲しいものにたどり着くまでの距離が、今よりずっと長かった時代。だからこそ、手に入れた瞬間の高揚も妙に濃かったのだと思う。

そう考えると、あの興奮を味わえない現代の若い男たちが、少しだけ可哀想になる気もする。

面倒で、恥ずかしくて、心臓に悪い。

それでも、越えるまでが大変なものほど、その先にあるものは妙に気持ちよく見える。

そんなことを考えるたびに、どこかで聴いたようなJ-POPのフレーズが脳内をかすめる。

自販機本とは、ただのエロ本ではなかった。
昭和のバイパス沿いで怪しく光っていた、面倒くささごと興奮を売る「欲望の箱」だったのだ。

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