オーラルセックスは、かなり評価が割れる行為だ。
ある人にとっては普通の愛撫。ある人にとっては本番に近い行為。別の文化では、口に出すこと自体が恥ずかしい話題。さらに時代をさかのぼると、する側が低く見られたり、娼婦や下層の人間がするものと扱われたりもした。
ここで面白いのは、行為そのものが急に生まれたわけではない点にある。昔から存在はしていた。ただし、評価のされ方が大きく違った。
この記事では、フェラチオやクンニリングスを個別に深掘りするのではなく、オーラルセックス全体が「なぜ嫌われたり、好まれたり、隠されたり、普通の行為として扱われたりしてきたのか」を見ていく。
フェラチオそのものの変遷は「フェラチオの歴史」で、クンニリングスに絞った話は「クンニの歴史」で詳しく扱っている。この記事は、その2つをつなぐ“性文化全体の話”として読むと分かりやすい。
オーラルセックスの評価が変わる理由

オーラルセックスの評価が変わる理由は、かなり単純に分けられる。
まず、生殖と直結しない。
膣への挿入と違い、オーラルセックスだけでは妊娠につながらない。そのため、子孫を残すことを性の中心に置く社会では、外れた行為として扱われやすかった。
次に、口を使う。
口は食べる、話す、祈る、挨拶するなど、日常や宗教と強く結びついた部位だ。そこに性器を近づける行為は、地域によってはかなり強い汚れの感覚と結びつく。
さらに、する側とされる側の上下関係が見えやすい。
性行為を「支配する側」と「される側」で見ていた社会では、口で奉仕する側が低く見られやすい。たとえ本人同士が楽しんでいても、周囲の価値観がそれを別の意味にしてしまう。
もうひとつ大きいのが、男女観。
男性の快楽は語られやすく、女性の快楽は隠されやすい社会が多かった。だからフェラチオは下品な笑い話や娼婦の技として記録されやすく、クンニリングスはさらに見えにくい場所へ押し込まれた。
つまり、オーラルセックスの評価は「気持ちいいかどうか」だけでは決まらない。
生殖、清潔感、身分、男女の力関係、宗教、法律、メディア。そこに時代ごとの価値観が乗る。
挿入中心の性では、口の行為は外れたものになりやすかった
性行為が長く「挿入」を中心に語られてきたのは、かなり大きい。
もちろん、昔の人が挿入以外のことをしていなかったという意味ではない。していた。ただし、公に語られる性は、結婚、妊娠、血筋、家の継承と結びつきやすかった。そうなると、性の中心はどうしても生殖に近い行為になる。
古代ギリシャやローマでも、単純に「男と女がするか」だけではなく、誰が能動側か、誰が受動側かが重く見られた。特にローマ社会では、自由身分の男性が“挿入する側”であることが男らしさと結びつけられやすかった。
この考え方の中では、口で相手を受け入れる行為はかなり扱いにくい。
口でする側は、快楽を与えているようでいて、同時に相手の性器を受け入れている。挿入する側が上、受け入れる側が下という見方をする社会では、ここが引っかかる。
だから古代ローマでは、オーラルセックスは記録にも出てくる一方で、侮辱や笑い、屈辱とセットで語られることも多かった。存在していたのに、立派な行為とは見なされにくい。ここに、オーラルセックスの扱いづらさが見える。
それでも口の行為は消えなかった

評価が低くても、行為そのものは消えない。
むしろ記録を見ていくと、オーラルセックスは「禁止される」「笑われる」「汚いと言われる」「しかし実際には行われる」という形で何度も現れる。
インドの『カーマ・スートラ』にも、口を使う行為は出てくる。ただしそこでも、誰でも堂々と行うものというより、特定の人々、娼婦、召使い、地域差、身分差と絡めて語られる。つまり、存在は認められているが、尊い行為として扱われているわけではない。
ここが重要。
昔の性文化は、現代人が思うほど単純に「昔は保守的だった」「現代は自由になった」では片づかない。
昔から人は色々なことをしていた。
ただし、それを誰がするのか、どこでするのか、どの身分なら許されるのか、結婚相手にするのか、娼婦に求めるのかで評価が変わった。
オーラルセックスは、性の本音が出やすい行為だった。表向きの道徳では低く見られ、裏では欲望の一部として残り続ける。だから記録に出てくる時も、どこか笑い話、罵倒、例外扱いになりやすい。
フェラチオとクンニリングスでは、評価のズレ方も違う
フェラチオとクンニリングスは、どちらもオーラルセックスに含まれる。けれど、歴史の中での見え方は同じではない。
フェラチオは、男性の快楽と結びつくため記録に残りやすい。古代の文献、娼婦文化、猥談、後のポルノ文化でも、比較的見えやすい位置にある。ただし、する側はしばしば低く見られた。男が受ける快楽としては欲しがられるのに、口でする側は汚れた役割にされる。このズレがある。
このあたりの細かい流れは「フェラチオの歴史」で扱っている。
一方でクンニリングスは、さらに別の重さを持つ。
女性の快楽をどう扱うかという問題が入るからだ。
男性中心の社会では、女性が快楽を受ける側に回ること自体が語られにくい。さらに男性が女性に口で奉仕する形は、男が下に回るように見える。だからクンニリングスは、フェラチオ以上に笑い、屈辱、隠された行為として扱われることがあった。
クンニリングスの歴史は「クンニの歴史」で掘り下げている。
この2つを比べると、オーラルセックスの歴史はただの性技の歴史ではないと分かる。
そこには、男性の快楽はどう語られるか、女性の快楽はどこまで認められるか、奉仕する側はなぜ低く見られるのか、という問題がある。
宗教と清潔観が、口の行為をさらに複雑にした

オーラルセックスの評価には、宗教も大きく関わる。
特に、生殖を性の重要な目的と見る考え方では、妊娠に結びつかない行為は疑われやすい。キリスト教圏では、夫婦の性を愛と生殖の結びつきとして考える流れがあり、快楽だけを目的にした性行為は問題視されてきた。
もちろん、実際の信者の考え方や地域差はかなりある。
宗派によっても違うし、時代によっても変わる。けれど「性は結婚と生殖の中に置くべきだ」という発想が強い場所では、オーラルセックスはどうしても説明しづらい。
清潔観も無視できない。
口は食べ物を入れる場所であり、言葉を出す場所でもある。そこに性器を近づける行為を「汚い」と感じる文化は少なくない。逆に、恋人同士の親密さとして受け入れる文化もある。
ここで評価が分かれる。
同じ行為でも、ある社会では愛撫。別の社会では不潔。さらに別の社会では、結婚相手にはしないが性風俗では求めるものになる。
このねじれが、オーラルセックスの歴史にはずっとある。
近代以降、性は生殖から少しずつ切り離されていった
近代以降になると、性の語られ方は変わっていく。
避妊、都市化、個室の増加、恋愛結婚の広がり、性科学、雑誌、映画、ポルノ。こうしたものが重なり、性は「子どもを作るため」だけでは語れなくなった。
もちろん、急にすべてが自由になったわけではない。
むしろ法律や道徳の面では、口や肛門を使う性行為が「不自然な行為」と見なされる時代もあった。英語圏で使われるソドミー法のように、時代や地域によっては、同性間の性行為や非生殖的な性行為が法律の対象になることもあった。
それでも、20世紀に入ると性研究が進み、人々が実際にどんな性行動をしているのかが調査されるようになる。表では語られなかった行為が、統計や調査の中に出てくる。ここで「している人はいるが、話題にされていなかっただけ」という部分が見え始める。
さらにポルノの影響は大きい。
オーラルセックスは映像にしやすい。挿入だけでは見えにくい表情、奉仕、上下関係、親密さ、支配感が分かりやすく映る。その結果、ポルノを通してオーラルセックスが“性行為の定番メニュー”のように広がった面はある。
ただし、ここは雑に言い切れない。
ポルノが行為を生んだわけではない。昔からあった行為を、見える場所に押し出したと考える方が近い。
現代では「普通」と「まだ恥ずかしい」が同時にある

現代では、オーラルセックスはかなり一般的な性行為として扱われることが増えた。恋人同士の前戯として語られることもあれば、挿入とは別の満足として語られることもある。
ただ、完全に普通になったわけではない。
家庭、宗教、地域、世代、性教育の差で、かなり温度差がある。
ポルノでは当たり前のように出てくるのに、現実の会話では言い出しにくい。若い世代の間では普通に語られることがあっても、家族や公の場では強いタブーになる。
また、オーラルセックスは「妊娠しないから安全」と軽く見られることもある。けれど、性感染症のリスクは別問題。ここも評価の分かれ目になる。性教育がしっかりしている場所では健康の話として扱われやすいが、性の話題そのものを避ける場所では、知識が曖昧なまま広がりやすい。
つまり現代のオーラルセックスは、昔より見える場所に出てきた。
ただし、タブーが消えたわけではない。表に出てきた分だけ、恋愛、ポルノ、性教育、健康、宗教、男女観がぶつかりやすくなった。
地域によって評価が違うのは、性のルールが違うから
オーラルセックスが時代や地域で違って見えるのは、行為そのものが変わったからではない。
その社会が性をどう分けているかが違う。
分け方はいくつもある。
・結婚内の性か、結婚外の性か
・生殖につながる性か、快楽中心の性か
・男がする側か、女がする側か
・愛情表現か、奉仕か、屈辱か
・語っていい行為か、隠す行為か
・医療や性教育で扱う話題か、道徳で押さえ込む話題か
この分け方が違えば、同じオーラルセックスでも意味が変わる。
たとえば、恋人同士の親密さとして見る社会では、オーラルセックスは愛撫に近い。
男性が相手を従わせるものとして見る社会では、奉仕や支配の意味が強くなる。
女性の快楽を正面から語らない社会では、クンニリングスは記録から消えやすい。
口や体液に強い不浄感を持つ社会では、そもそも話題にすること自体が嫌がられる。
結局、オーラルセックスは性文化の鏡みたいな行為なのかもしれない。
そこには、その社会が何を恥ずかしいと思い、何を男らしさや女らしさと考え、何を愛情として認めるのかが出る。
あとがき
オーラルセックスの歴史は、単に「昔は少なかった」「現代は増えた」という話ではない。
昔から行為はあった。
ただし、それをどう呼ぶか、誰がするものと見るか、結婚相手に求めていいのか、風俗や娼婦の世界に押し込めるのか、公に語っていいのか。そこが時代や地域で大きく違った。
挿入中心の性観では、オーラルセックスは本筋から外れた行為になりやすい。生殖につながらず、口を使い、する側とされる側の上下が見えやすいからだ。
それでも、消えることはなかった。
隠され、笑われ、罵られ、風俗の技として扱われ、ポルノの中で見えるものになり、現代では恋人同士の愛撫としても語られるようになった。
評価が変わったというより、社会が性を見る目を少しずつ変えてきた。
オーラルセックスは、その変化がかなり分かりやすく出る行為だ。
フェラチオの歴史、クンニの歴史を個別に見ると、今度は男女で評価のされ方がどう違ったのかも見えてくる。オーラルセックス全体の話と、個別の行為の話をつなげると、性文化の見え方はだいぶ変わる。



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