【なぜゲイの街に?】新宿二丁目がゲイの街として栄えた理由|遊廓・赤線から300年の歴史をたどる



新宿二丁目と言えば現在では日本を代表する「ゲイの街」として知られ、小さな雑居ビルの中にゲイバーやレズビアンバー、ミックスバーなどがひしめいている。

だが、考えてみると不思議な話でもある。

なぜ東京の数ある繁華街の中で、よりによって「新宿二丁目」がここまで大きなゲイの街になったのか。

渋谷でも池袋でも上野でもない。

なぜ二丁目だったのだろう。

その歴史をたどってみると、単に「ゲイバーが増えたから」という説明では到底足りないことが分かる。

江戸の宿場町、飯盛女、遊廓、空襲、闇市、赤線、売春防止法、戦後の飲み屋街、そしてゲイバー。


現在の新宿二丁目は、300年以上にわたって街の役割が何度も塗り替えられた末に生まれた場所

なのである。

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まず結論|新宿二丁目がゲイの街になったのは「赤線跡地だったから」だけではない

新宿二丁目の夜の街並み
新宿二丁目の夜の街並み(2013年)。出典:Asanagi/Wikimedia Commons/CC0 1.0 元画像・利用条件

新宿二丁目の成り立ちについて、よく語られる説明がある。

「昔ここは赤線だった。1958年に売春防止法が全面施行され、空いた店にゲイバーが入った」

これは大筋では間違っていない。

新宿区の資料でも、1958年の売春防止法施行後、旧赤線地区の多くの店が閉店または飲食業などへ業態転換し、その空白地帯へ新宿三丁目付近などに点在していたゲイバーが移ってきた流れが紹介されている。

出典:新宿区「地域資源と集積のプロセス」

しかし、ここで大事なのは「赤線がなくなったからゲイバーが誕生した」わけではないこと。

1950年代には、すでに新宿周辺にゲイバーやゲイ男性が集まる飲み屋街が存在していた。

赤線廃止後に生まれた空白。

すでに新宿に存在していたゲイコミュニティ。

道路整備による飲み屋街の移転。

そして巨大繁華街・新宿そのものの集客力。

これらが1960年代に重なり、現在の新宿二丁目へゲイバーが集中していった。

時代新宿二丁目周辺で起きたこと
1699年甲州街道の宿場「内藤新宿」が開設される
江戸時代旅籠や茶屋が並び、宿泊・飲食・遊興の街として発展
1921~1922年現在の二丁目・三丁目周辺に娼家が集まり新宿遊廓が成立
1945年空襲により新宿遊廓を含む街の大部分が焼失
戦後旧遊廓の一部が「赤線」となる
1950年代千鳥街などですでにゲイバーが営業
1958年売春防止法が全面施行され赤線が終焉
1968年道路整備に伴い千鳥街が立ち退く
1969~1972年頃旧赤線地区だった現在の二丁目周辺でゲイバーが急増
1970年代以降「ゲイの街・新宿二丁目」として定着していく



1699年|すべての始まりは「内藤新宿」という宿場町

話を江戸時代まで戻そう。

そもそも「新宿」という地名自体が、この土地の成り立ちを表している。

甲州街道が整備された当初、日本橋を出た旅人にとって最初の宿場は高井戸だった。

しかし、日本橋から高井戸まではかなり距離がある。

そこで1699年、その途中へ新たに設けられた宿場が「内藤新宿」だった。

「内藤」はこの付近に下屋敷を持っていた信州高遠藩内藤家、「新宿」は文字通り新しく設けられた宿場を意味する。

財務省の資料によると、宿場は現在の四谷四丁目付近から新宿三丁目交差点付近まで約1kmにわたって続いていた。

さらに明治初期には、現在の二丁目仲通りと交差する付近も「内藤新宿二丁目」に含まれ、この一帯が新宿の中心地だった。

現在の巨大な新宿駅前ではなく、今の新宿二丁目・三丁目側こそ「新宿」という街の原点だった。

出典:財務省「路線価でひもとく街の歴史 第47回 東京都新宿区」

歌川広重 四ッ谷内藤新宿
歌川広重『名所江戸百景 四ッ谷内藤新宿』。出典:Brooklyn Museum/Wikimedia Commons/Public Domain 元画像・利用条件


迷路亭愛

今の新宿駅から見ると少し東側よね。新宿という街の中心そのものが、時代とともに西へ移動していったの。



江戸時代から新宿には「遊ぶ街」の顔があった

内藤新宿には旅人を泊める旅籠や茶屋が並んだ。

そして宿場町の歴史を語るうえで外せないのが「飯盛女」である。

本来は旅籠で給仕や雑用をする女性を指す言葉だが、東京都公文書館も、実際には多くの飯盛女が売春を行っていたことを解説している。

出典:東京都公文書館「芸娼妓解放令後の飯盛女」

つまり内藤新宿は、単なる交通の中継地点ではなかった。

宿泊、飲食、酒、遊興、そして性が交差する「盛り場」としての顔を、江戸時代から持っていた。

内藤新宿は1718年にいったん廃止されたものの、1772年に再開。

その後、品川宿・板橋宿・千住宿と並ぶ「江戸四宿」の一つとして賑わっていく。

もちろん、江戸時代の内藤新宿と現代のゲイタウンを一直線に結びつけることはできない。

ただ、「夜、人が集まり、酒を飲み、遊ぶ場所」という土地の歴史が非常に長いことは確かである。



1922年|現在の二丁目周辺に「新宿遊廓」が誕生する

時代が明治から大正へ進むと、新宿は急速に近代化していく。

その中で現在の新宿二丁目へ直接つながってくるのが「新宿遊廓」である。

性社会・文化史研究者の三橋順子氏によると、1900年代初頭の新宿には甲州街道沿いを中心に多数の貸座敷、実質的な妓楼が存在していた。

しかし、新宿御苑が皇室の庭園として整備されたことで、その近くに娼家が並んでいることが問題視されるようになる。

1918年、警視庁は娼家に対し、街道から奥へ入った旧牧場跡地への集団移転を命じた。

移転は1921年に完了。その直後に火災で全焼するという災難にも見舞われたが、再び建て直される。

そして1922年春、59軒の妓楼が並ぶ「新宿遊廓」が成立した。

1929年刊行の『日本遊里史』では、貸座敷56軒、娼妓570人という規模が記録されている。

現在「ゲイの街」と呼ばれている場所は、その何十年も前から東京有数の「性と夜の街」だった。

出典:三橋順子「遊廓から『赤線』、そしてゲイタウンへ―新宿2丁目の変貌―」

1920年代末の新宿通り
1920年代末の新宿通り。新宿遊廓そのものではなく、当時の新宿の都市化を伝える資料。出典:『大東京写真帖』(1930年)/Wikimedia Commons/Public Domain 元画像・利用条件



関東大震災後、新宿は東京を代表する盛り場へ

1923年、関東大震災が東京を襲う。

東京東部の市街地や遊興地が甚大な被害を受ける一方、新宿周辺は比較的被害が小さかった。

震災後、東京の住宅地は西へ拡大。

新宿駅は郊外と都心を結ぶ巨大ターミナルへ成長していく。

百貨店、映画館、劇場、ダンスホール、カフェー。

新宿駅周辺には次々と新しい娯楽が集まった。

財務省の資料によると、1929年の鉄道省調査では新宿駅の電車線降車客数が東京駅を上回っていたという。

現在まで続く「夜の新宿」の原型は、すでに戦前に出来上がりつつあった。

1933年の夜の新宿
1933年の夜の新宿。新宿遊廓そのものではなく、当時の新宿繁華街を伝える資料。出典:歴史写真会『歴史写真』昭和8年10月号/Wikimedia Commons/Public Domain 元画像・利用条件



1945年|空襲で新宿遊廓は焼けた

しかし、その繁栄は戦争によって一度断ち切られる。

1945年5月25日の空襲で、新宿の街は大きな被害を受けた。

新宿遊廓も焼失する。

普通なら、ここで「夜の街」の歴史が終わっても不思議ではない。

ところが新宿は、敗戦後すぐに再び大量の人を集め始める。

焼け跡には巨大な闇市が生まれた。

食料、衣類、酒、娯楽。

配給だけでは足りない物を求め、人々が新宿へ押し寄せる。

三橋氏は、この戦後の巨大闇市こそ、後の新宿がさまざまな人や文化を受け入れる土壌になったと指摘している。

出典:nippon.com「多様性の街、そして『性なる場』新宿」

1952年の新宿駅前
1952年6月25日の新宿駅前。二丁目そのものではなく、戦後の新宿の様子を伝える資料。出典:朝日新聞社『アサヒグラフ』1952年7月16日号/Wikimedia Commons/Public Domain 元画像・利用条件



戦後の新宿二丁目は「赤線」の街になった

戦後、GHQの方針によって戦前の公娼制度は解体された。

しかし売春そのものが直ちに消えたわけではない。

特定地域の「特殊飲食店」という形で、事実上売春を伴う営業が続いた。

こうした地域が、いわゆる「赤線」である。

新宿では旧新宿遊廓の一部が赤線となった。

三橋氏が紹介する1952年末の統計では、新宿の赤線には業者74軒、従業婦477人がおり、従業婦数では新吉原、洲崎に次いで都内3位の規模だったという。

1950年代半ばまで、新宿二丁目は現在とはまったく違う意味で「性の街」として栄えていた。

迷路亭愛

今では男性同士のコミュニティで有名な場所が、その直前まで男女の性的サービスで知られる街だった。この入れ替わりがすごく劇的なのよね。



1958年4月1日|売春防止法の全面施行で赤線が終わる

二丁目の歴史を大きく変えたのが、1958年4月1日。

売春防止法が全面施行された。

厚生省の1958年度版白書にも、同日から刑事処分に関する規定が施行され、売春防止法が完全施行されたことが記録されている。

出典:厚生省「厚生白書 昭和33年度版」

これによって新宿二丁目の赤線も終焉を迎えた。

それまで街へ大量の客を呼んでいた商売が成立しなくなった。

しかし、街そのものが消えたわけではない。

木造の小さな店舗。

夜間営業に使われてきた物件。

飲食店へ転用できる建物。

巨大繁華街・新宿に近い立地。

新宿区の資料では、多くの店が閉店する一方、建物を残したまま飲食業などへ業態変更した店もあったことが紹介されている。

それまでの商売は消えても、「夜の店」を開くための器は街に残った。

ここだけを見ると、「だからゲイバーが入ってきた」と言いたくなる。

だが、本当に面白いのはここからだ。



実は赤線が消える前から、新宿にはゲイバーがあった

ゲイバー文化そのものは、1958年に突然誕生したわけではない。

1950年代には、すでに新宿でゲイバーが集まる場所が存在していた。

その代表的な場所が「千鳥街」である。

千鳥街は、現在の新宿二丁目と三丁目の境界に近い場所にあった、闇市を起源とする小さな飲み屋街。

三橋氏によると、1950年代にはすでにゲイバーの多い街として知られていた。

つまり歴史の順番は、

新宿にゲイバー文化が生まれる

1958年に赤線がなくなる

二丁目で多数の店舗が閉店・業態転換する

都市整備によって既存の飲み屋街が移転する

二丁目へのゲイバー集積が加速する

という流れ。

「赤線の代わりとしてゲイ文化が生まれた」のではなく、すでに存在していたゲイ文化が、赤線廃止後の二丁目へ流れ込んでいったのである。

出典:nippon.com「多様性の街、そして『性なる場』新宿」



1968年|道路一本が「ゲイの街」の地図を変えた

1960年代、新宿では都市整備が進んでいた。

その中で大きな意味を持ったのが、現在の御苑大通り周辺の道路整備。

千鳥街は1968年、道路延長によって立ち退くことになる。

そして、その直後。

三橋氏の研究では、1969年から1972年にかけて、新宿通り北側の旧赤線・新宿二丁目周辺でゲイバーが急増したとされている。

「赤線廃止後、新しい商売を求めていた街」と「すでに新宿に存在していたゲイバー文化」が、ここで合流した。

現在の二丁目が形になる大きな転換点だった。

迷路亭愛

赤線跡地だけでも、千鳥街だけでも今の二丁目にはならなかった。いくつもの条件が同じ時期に重なったのが大きいのね。



実は昔の「新宿二丁目」と今の二丁目は範囲も違う

ここで、ちょっとややこしいが面白い話がある。

戦前の新宿遊廓は、現在の町割りで見ると新宿二丁目だけに収まっていたわけではない。

三橋氏によると、現在の二丁目側がおよそ3分の1、三丁目側がおよそ3分の2。

メインストリートだった「大門通り」は、現在の三丁目にある要通り付近にあたるという。

その後、道路整備や1968年の町境変更によって、現在の二丁目と三丁目の境界が形成された。

つまり「遊廓だった新宿二丁目が、そのまま現在のゲイタウンになった」と地図上で単純に重ねることもできない。

街の商売だけでなく、道路も町名の境界も変わっている。

新宿二丁目の歴史が少し分かりにくい理由の一つである。



なぜ渋谷でも池袋でもなく「二丁目」に店が集中したのか?

ここまで来ると、もう一つ疑問が出てくる。

東京にはいくらでも繁華街がある。

実際、ゲイ向けの店は新宿以外にも存在していた。

それでも、なぜ新宿二丁目だけが日本最大級のゲイバー集積地になったのだろう。


理由1|小さなバーを営業しやすい物件があった

ゲイバーの多くは、巨大な店舗を必要としない。

カウンターと数席ほどの小さな店でも営業できる。

赤線廃止によって空いた店舗や、その後建てられた小規模な雑居ビルは、こうした営業形態と相性が良かった。

新宿二丁目の特徴である「一つのビルに何軒もの小さなバーが入る」という街並みも、こうして形成されていった。


理由2|店があるから客が来て、客が来るから店が増える

一軒だけゲイバーがある街と、何十軒もの店から選べる街。

客にとって魅力的なのは当然後者。

客が集まれば、新しく店を出したい人も二丁目を選ぶ。

さらに店が増える。

すると、また客が増える。

「ゲイバーが多いから人が来る。人が来るからゲイバーが増える」という強力な集積効果が生まれた。


理由3|「ここなら自分を隠さなくていい」という場所になった

現在よりも同性愛への社会的偏見が強かった時代。

家族や職場、友人に自らがゲイであることを明かせない人も多かった。

そんな中、ゲイバーが密集する二丁目は、単なる飲み屋街以上の意味を持ち始める。

普段の生活では隠している自分を、ここでは隠さなくてもいい。

須崎成二氏が首都圏のゲイ男性24人を対象に行った研究でも、新宿二丁目は安心してセクシュアリティを解放できる特別な場所として肯定的に捉えられていることが報告されている。

出典:J-STAGE「『新宿二丁目』地区におけるゲイ男性の場所イメージとその変化」須崎成二


理由4|ゲイバーを始める仕組みまで街に蓄積された

一度巨大なゲイバー街が成立すると、さらに強い循環が生まれる。

須崎氏がゲイバー経営者やテナント供給者へ行った調査では、新宿二丁目の集積を維持する要因として、営業開始時のコストを抑えられるリース店舗や、物件供給に関わるキーパーソンの存在などが指摘されている。

つまり二丁目には、客だけでなく「これからゲイバーを始めたい人」まで集まってくる仕組みが出来上がった。

店が店を生む状態になったのである。

出典:J-STAGE「新宿二丁目におけるゲイ・ディストリクトの空間的特徴と存続条件」須崎成二



1970年代|「ゲイバーがある街」から「ゲイの街」へ

1960年代末から急増したゲイバーは、1970年代に入るとさらに大きな集積となった。

ここで重要なのは、単純に店舗数が増えただけではないこと。

店主。

従業員。

常連客。

友人関係。

店の求人。

物件情報。

新しい店の噂。

そうしたものが狭い地域の中ですべてつながり始めた。

「ゲイバーがある街」ではなく、「ゲイなら二丁目へ行けば何かがある」という街そのもののブランドが出来上がった。

二丁目は酒を飲む場所であると同時に、人と出会い、仲間を知り、情報を得るコミュニティへ変わっていった。


「千鳥街から全部移ってきた」とだけ考えるのも単純すぎる

新宿二丁目の歴史では、千鳥街の立ち退きがゲイタウン形成の重要な契機として語られる。

ただし、1950~60年代のゲイバー文化は千鳥街だけに存在していたわけではない。

新宿三丁目周辺をはじめ、新宿の複数の場所に店やコミュニティが点在していた。

新宿区の資料でも、売春防止法施行後の旧赤線地区へ新宿三丁目付近に点在していたゲイバーが移ってきたと説明されている。

そのため全体像としては、

一つの飲み屋街が丸ごと二丁目へ移動したというより、新宿各地に点在していたゲイ文化が1960年代後半から現在の二丁目周辺へ急速に集約されていった

と見るのが分かりやすい。


実は「ゲイがたくさん住んでいる街」という意味でもない

「ゲイの街」と聞くと、新宿二丁目にはゲイ男性が大勢住んでいると思う人もいるかもしれない。

しかし、二丁目の特徴は必ずしも住民構成にあるわけではない。

須崎氏の研究では、新宿二丁目は欧米で見られる一部のゲイ・ディストリクトとは異なり、ゲイ向け商業施設が極端に集積した場所という性格が強い。

昼間に歩けば、住宅や会社、寺院などもある普通の東京の街。

ところが夜になると、小さな雑居ビルの無数の扉の向こうで、まったく別の街が動き始める。

この二重性も新宿二丁目の面白いところである。


ネットやマッチングアプリが登場しても二丁目は消えなかった

インターネット以前、ゲイ男性同士が知り合う方法は現在よりはるかに限られていた。

その意味でも、ゲイバーが大量に集まる二丁目の存在価値は非常に大きかった。

しかし今ではSNSもマッチングアプリもある。

家から一歩も出なくても、同じセクシュアリティの人と知り合える。

ならば二丁目は必要なくなるのではないか。

実際には、そう簡単には消えなかった。

須崎氏の研究でも、オンライン上で新しい人間関係を作れるようになったことが、必ずしも二丁目のゲイバー利用を妨げていないことが報告されている。

二丁目が提供してきたものは、単なる「相手を探す機能」ではなかったからだ。

店主と話す。

常連になる。

知り合いが増える。

別の店を教えてもらう。

そして、その街に自分の居場所ができる。

アプリは人と人を結びつけられる。

しかし、数十年かけて積み重なった「街そのもの」を完全に置き換えるのは難しい。



300年以上を並べると「なぜ新宿二丁目なのか」が見えてくる

新宿二丁目がゲイの街として栄えた理由を、一つだけに絞ることはできない。

  • 江戸時代から内藤新宿という宿場町だった
  • 宿泊・酒・遊興など、人が集まる街として栄えた
  • 1920年代に現在の二丁目・三丁目周辺へ新宿遊廓が形成された
  • 戦後は旧遊廓の一部が赤線となった
  • 1958年に売春防止法が全面施行され、街の主要な商売が消えた
  • その時点ですでに新宿にはゲイバー文化が存在していた
  • 千鳥街など複数のゲイバー集積地があった
  • 道路整備によって千鳥街が立ち退いた
  • 1969~72年頃に現在の二丁目周辺でゲイバーが急増した
  • 店が客を呼び、客がさらに新しい店を呼んだ
  • ゲイ男性が安心して集まれる貴重な場所になった
  • 店舗・物件・人間関係まで含めたコミュニティが形成された

そして、この歴史で特に興味深いのが、街の役割が何度変化しても「普段とは少し違う時間を過ごすために、人が集まる場所」であり続けていることだ。

江戸時代には旅人が集まった。

戦前には遊廓を訪れる人々が集まった。

戦後には赤線や飲み屋街へ人が集まった。

そして1950~60年代、新宿各地に存在していたゲイコミュニティが二丁目へ集約されていった。

建物も商売も客層も変わった。それでも「夜、人が集まる街」という性格だけは、形を変えながら受け継がれてきた。

日本を代表するゲイの街が新宿二丁目に生まれたのは、たった一つの出来事によるものではない。

江戸から令和まで、何度も壊れ、作り直され、それでも人を引き寄せ続けてきた新宿。

新宿二丁目は、その長い歴史が作り上げた街なのである。

迷路亭愛

ある日突然ゲイの街になった」わけじゃないのがよく分かるよね。いくつもの時代の街が重なった一番上に、今の二丁目があるの。


参考・出典

おすすめカテゴリー:雑学・考察

タグ:新宿,ゲイ,赤線,遊廓,LGBT

おすすめディスクリプション:なぜ新宿二丁目は日本を代表するゲイの街になったのか。江戸の内藤新宿から新宿遊廓、戦後の赤線、売春防止法、千鳥街、1960年代以降のゲイバー集積まで、300年以上にわたる街の変化を歴史資料とともに詳しく解説します。

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