日本のAV女優で、後世まで「レジェンド」と呼ばれるのは誰なのか。
単純な作品売上だけでは決めにくい。レンタルビデオが中心だった1980~90年代と、セルDVDが大量に売れた2000年代、動画配信とSNSが主戦場になった2010年代以降では、人気の測り方がまるで違うからだ。
そこで今回は、作品の売上や出演本数に加え、一般知名度、テレビや芸能界への影響、海外人気、活動期間、後のAV女優に与えた影響まで含めて10人を選んだ。
順位を決めるランキングではなく、デビュー時期がおおむね古い順での紹介。華やかな実績だけでなく、本人の人柄が見える小さなエピソードや、今では考えにくい撮影秘話も交えながら振り返っていく。
黒木香――AV女優を「発言する文化人」に変えた女性
1986年、横浜国立大学に在学中だった黒木香は、村西とおる監督の『SMぽいの好き』でデビューした。
大学ではイタリア美術を学び、もともとは美術留学の費用を工面することが出演理由だったとされる。当時のAV女優には詳しい経歴を伏せる人も多かったが、黒木香は現役国立大学生という肩書まで含めて世間の前に現れた。
黒木香を有名にしたのは、作品だけではない。
手を上品に頬へ添え、「わたくし」と語る独特の話し方。それでいて口にする内容は大胆で、処理していない脇毛も堂々と見せた。知性、上品さ、性への好奇心が同じ人物の中に同居しており、当時のテレビでは見たことのないキャラクターだった。
バラエティー番組だけでなく、討論番組にも出演。男性に見られるだけのAV女優ではなく、自分の言葉で性や社会を語る女性として注目された。
芸能界引退後は公の場から離れており、現在の活動や生活について公式な発表はない。本人と確認できるSNSも開設されておらず、ネットフリックスでかつて恋人関係でもあった村西とおるの自伝的映画「全裸監督」では彼女も役柄としては登場していたが、コメントを出すなどは一切していない。社会現象を巻き起こした現役時代とは対照的に、現在は私人として静かに暮らしているとみられる。
黒木香に憧れて脇毛を伸ばした女性もいた
黒木香の支持者には男性だけでなく、若い女性も多かった。
彼女を取材していた女性ライターは、黒木香に憧れた友人が脇毛を伸ばし、水泳の授業を拒否するほど影響を受けていたという思い出を記している。あくまで個人的なエピソードだが、黒木香が女性にとっても解放の象徴になっていたことが伝わってくる。
AV女優がテレビに出ること自体は、その後珍しくなくなった。しかし、AV女優が論客や文化人に近い立場で社会現象になった例は今も少ない。
出演作品の本数以上に「AV女優とは何者なのか」という世間の認識を変えた人物だった。
松坂季実子――倒産寸前のメーカーを救ったバブル期の救世主
1989年に登場した松坂季実子は、圧倒的なバストで「巨乳AV女優」というジャンルを一気に広げた。
当時発表されていたスリーサイズは、B110.7・W60・H90センチでHカップ。数字だけを見ても、1980年代末の女優としては強烈なインパクトがある。
ただし、バスト110.7センチという数字は「イイオンナ」と読ませる語呂合わせでもあった。当時ダイヤモンド映像でプロデューサーを務めていた本橋信宏によると、実際のバストは90センチ台だったという。
つまり、本人が当時としては珍しいほど豊かな胸を持っていたのは事実だが、「110.7センチ」という数字には、村西とおる率いるダイヤモンド映像らしい派手な宣伝戦略も含まれていた。
現在では、胸の大きさや体形を前面に出した作品は珍しくない。しかし当時は、女優の身体的特徴そのものを分かりやすい言葉と数字でブランド化し、大規模に売り出す手法がまだ一般的ではなかった。
松坂季実子の登場によって「巨乳」という言葉がAVの一ジャンルとして定着し、その後は胸の大きな女優を主役にした作品が次々と作られるようになる。
AV引退後は芸能活動から離れ、現在の詳しい生活については公表されていない。本人と確認できる公式SNSもなく、バブル期のAV界を席巻したスターは、その後ほとんど公の場に姿を見せていない。
週刊誌のグラビアから流通まで動かした
松坂季実子が週刊誌のカラーグラビアに登場すると、掲載誌の売上が伸び、ビデオ店からも作品を求める声が殺到した。
当時、ダイヤモンド映像は大手メーカー側から流通面で締め出されていたが、販売店から「松坂季実子の作品を置きたい」という要求が相次ぎ、結果的に包囲網が崩れていったと伝えられている。彼女一人の人気が、メーカーの経営だけでなく業界の流通事情まで動かした格好だ。
現在ならSNSのフォロワー数や配信ランキングで人気が見えるが、当時はビデオ店に作品が並ぶかどうかが死活問題だった。
その状況で、販売店側から作品を要求させた松坂季実子の集客力は別格。バブル期の華やかさと、女優を大スターとして売り出すAVメーカーの勢いを象徴する存在だった。
飯島愛――AV女優から国民的タレントへ、36歳で迎えたあまりにも早い最期
飯島愛は、AV女優出身者の中でも一般知名度が突出していた人物である。
AV出演後、深夜番組『ギルガメッシュないと』でブレイク。Tバック姿でニュースを読む「GNNヒップライン」のキャスターとして人気を集め、やがて深夜番組の枠を飛び越えて、ゴールデンタイムのバラエティー番組や情報番組にも進出した。
歯切れのよい発言、姉御肌のキャラクター、芸能人相手にも遠慮しない率直な物言いが支持され、AVを見たことがない層にも顔と名前が浸透していく。
AV出身であることを隠して一般芸能界へ進んだのではない。過去も含めて「飯島愛」という強烈なキャラクターに変え、お茶の間の人気者になったところに彼女の凄さがある。
2時間の遅刻から始まった『ギルガメッシュないと』
『ギルガメッシュないと』への初出演時、飯島愛はテレビの仕事にあまり乗り気ではなく、収録現場に約2時間遅刻したという。
当然ながらリハーサルには参加できず、険しい表情をしたディレクターから台本を渡されて、初めて自分がTバック姿でニュースを読むコーナーに出演すると知った。
緊張で頭が真っ白になりながらも、何とか本番を終了。帰り際にはプロデューサーから突然「レギュラーになったから、よろしく」と告げられたという。普通なら仕事を失ってもおかしくない大遅刻が、結果的には国民的タレントへ進む最初の一歩となった。
番組では、真面目なニュースキャスター風の姿で原稿を読み始め、途中でカメラが引くと下半身はTバックという落差が見せ場になっていた。
飯島愛の明るさと堂々とした振る舞いによって、単なるお色気企画だったコーナーは番組を代表する名物へと成長。「Tバックの女王」と呼ばれた彼女は、1990年代の深夜テレビを象徴する存在になっていった。
『プラトニック・セックス』で自分の過去を告白
2000年には、自伝的小説『プラトニック・セックス』を発表した。
そこでは、家庭との確執、家出、性風俗の世界に入った経緯、AV出演、芸能界での成功など、自身の半生を赤裸々に描いている。
飯島愛は、それまでテレビで見せていた明るく奔放な姿の裏に、傷つき、迷いながら生きてきた一人の女性がいたことを自分の言葉で明かした。
作品はベストセラーとなり、映画やテレビドラマにも展開。AV女優の過去を刺激的な話題として消費させるだけでなく、自分自身の人生を一つの物語として世間に提示した。
性に奔放な女性として笑いを取る一方で、自分が経験してきた痛みについては真剣に語る。その両面を隠さなかったことが、同性を含む幅広い支持につながった。
台湾の占い師から告げられた「3年後にいなくなる」
飯島愛をめぐるエピソードの中で、今も語られるのが占い師との奇妙なやり取りだ。
飯島愛はテレビ番組で台湾を訪れ、現地の有名な占い師から「3年後にいなくなる」と告げられたという。
後に『中居正広の金曜日のスマたちへ』でその出来事を振り返り、芸能界からいなくなるという意味なのか、死ぬという意味なのかを尋ねたところ、占い師が「死ぬ時は、人は何も持っていけません」と話し、彼女の顔を見ながら泣き出したと説明していた。
飯島愛は重い話をそのまま語るのではなく、「私が泣きたいよ!」と笑いに変えている。さらに、もし本当に当たったら数年後にこの映像が使われるかもしれないと冗談まで飛ばした。
この映像は飯島愛の死後、「自らの死を予告していた映像」として再び注目された。
ただし、占い師が実際に使った言葉はあくまで「いなくなる」であり、明確に死亡時期を予言したわけではない。告げられた「3年後」と実際に亡くなった時期も一致しておらず、「死の予言が的中した」と断定できる話ではない。
それでも、飯島愛本人が死を連想して語っていたこと、占い師が彼女を見て泣いたとされること、そして数年後に若くして亡くなったことが重なり、不気味なエピソードとして人々の記憶に残った。
「今は引退しない方がいい」と引き留めた木村藤子
もう一人、飯島愛との関わりが話題になったのが、「青森の神様」と呼ばれた霊能者・木村藤子である。
芸能界引退を決めていた飯島愛を番組で見た木村藤子は、「今、引退せずに乗り越えた方がいい」「2、3年後には違う形で良い方へ向かう」と説得した。
しかし、飯島愛の意思は固く、引退の決断を変えることはなかった。
木村藤子は後年、何とか考え直してもらおうと焦っていたと振り返っている。マイクが切れていると思い、スタジオの隅でも飯島愛へ助言を続けたが、その姿まで放送に映ったことで、死後に「何かを予見していたのではないか」という憶測が広がった。
こちらも、木村藤子が飯島愛の死を具体的に予言したわけではない。
ただ、普段は落ち着いていた木村藤子が、飯島愛の引退を必死に止めようとしていた姿は視聴者に強い印象を残した。後に起きた出来事を知ってから映像を見返すと、その言葉が別の意味を持って聞こえてしまうのも無理はない。
芸能界引退と、36歳で迎えた孤独な最期
飯島愛は2007年3月、芸能界を引退した。
引退前には腎盂腎炎や腎臓結石などの体調不良も報じられたが、本人は病気だけが理由であるとは明言していない。『サンデージャポン』では「シロウトになる」と話し、引退後もブログを通じて近況や考えを発信していた。
表舞台から離れても、飯島愛の名前が忘れられることはなかった。復帰を期待する声もあり、新しい事業を始める構想も伝えられていた。
しかし2008年12月24日、東京都渋谷区の自宅マンションで亡くなっているのが発見される。
知人が数日間連絡を取れないことを心配し、管理人に部屋を開けてもらったところ、リビングで倒れている飯島愛を発見した。すでに死後約1週間が経過していたとみられ、わずか36歳での死だった。
発見当初は、室内に風邪薬や睡眠導入剤などがあったことから、自殺や薬物の影響を疑う報道も出た。
しかし、その後に行われた病理検査によって、警視庁は死因を肺炎と発表。自殺ではなく病死と断定された。
数多くの芸能人に囲まれ、いつもテレビの中心で明るく振る舞っていた飯島愛が、自宅で一人亡くなり、数日間誰にも気づかれなかった。その事実は社会に大きな衝撃を与えた。
台湾の占い師が語った「いなくなる」という言葉や、木村藤子が引退を止めようとした映像も、彼女の死と結びつけて繰り返し語られるようになった。
過去を隠さず、自分の言葉で生きた女性
飯島愛の凄さは、AVから一般芸能界へ転身したことだけではない。
AV出演歴を消そうとするのではなく、笑いに変え、時には著書で真剣に振り返りながら、自分自身の物語として世間に示した。
テレビでは遠慮のない発言で笑いを取りながら、性教育や性感染症などの問題については真剣に語ることもあった。過去の肩書だけで扱われる存在から、社会問題について意見を求められるタレントへ。その変化を最も大きな規模で成し遂げた人物だった。
大遅刻から始まったテレビ人生、過去をさらけ出した『プラトニック・セックス』、占い師から告げられた不吉な言葉、突然の引退、そして36歳で迎えたあまりにも早い最期。
華やかな成功と、その裏側にあった孤独や苦悩まで含めて、飯島愛ほど多くの人の記憶に残ったAV女優出身者はほかにいない。
彼女が作ったのは、AV女優が一般芸能界へ進む道だけではなかった。過去を隠さず、自分の言葉で自分の人生を語るという生き方そのものだった。
小室友里――レンタルビデオ時代のクイーンから業界改革を語る立場へ

小室友里は1990年代後半を代表するAV女優の一人。
整った顔立ちと親しみやすさを併せ持ち、特定の過激ジャンルに頼らず、名前そのものが作品を借りる理由になるスターだった。映像作品の総売上は100万枚以上と紹介されることもあり、「レンタルビデオ時代最後のクイーン」と呼ばれている。
当時はSNSも動画配信サービスもない。ファンが新作情報を知る場所は雑誌やビデオ店であり、棚に置かれたパッケージの中から選ばれる必要があった。
その時代に安定して作品を売り続けたことが、小室友里の大きな実績となっている。
引退後はAVに出演する女性の相談を受ける側へ
小室友里の経歴で興味深いのは、引退後の活動だ。
経営や性に関する講演に携わり、AV出演者の権利や撮影環境についても発言。AV出演を考えている女性の家族から相談を受けることもあり、頭ごなしに止めるのではなく、まず本人がなぜ出演したいのかを聞くことが大切だと語っている。
若い頃にはAVの中心にいた人物が、後年には業界の問題点や出演者保護を語る立場になった。
小室友里は単なる人気女優ではなく、出演者として経験したことを、次の世代の環境改善へつなげている人物でもある。
現在はタレント起業家、男女コミュニケーション心理士として、恋愛や夫婦関係、職場のコミュニケーションを題材に講演や講座を行っている。YouTubeでは日常のVlogや自身の経験を語る動画も発信。かつてAVの中心にいた経験を、現在は人間関係を伝える仕事へつなげている。
及川奈央――AV引退後も俳優として生き残った実力派

及川奈央は2000年にAVデビュー。
落ち着いた雰囲気、美貌、受け答えの丁寧さで人気を集め、2000年代初頭を代表するAV女優となった。AV引退後はタレントや俳優として活動し、特撮作品、映画、舞台などへ出演の場を広げている。
元AV女優という話題性だけで一時的に出演するのではなく、長期にわたって芝居を続けている点が大きい。
現在も俳優として舞台を中心に活動しており、2026年には劇団狼少年へ正式に所属。YouTubeの「なおチャンネル」では、旅や趣味、レトロスポットを楽しむ自然体の姿も見せている。AV引退から20年以上を経ても、俳優として継続的に舞台へ立ち続けている。
「志村、後ろ!」の声で舞台に魅了された
及川奈央が本格的な舞台を経験した作品の一つが、志村けんの舞台公演『志村魂』だった。
舞台上で志村けん演じる殿様の背後からオバケが近づく場面では、客席からおなじみの「志村、後ろ!」という声が飛んだ。映像作品とは違い、観客の反応がその場で返ってくることに喜びを感じ、舞台の魅力にはまったという。
AVではカメラに向かって演技をし、完成した作品を後からファンが見る。一方、舞台では観客の笑いや驚きを直接受け取れる。
及川奈央はその違いを楽しみ、仲間と演劇ユニットまで結成した。近年のインタビューでは、両親が舞台や映画を何度も見に来てくれることが、俳優活動を続ける大きな原動力になっているとも語っている。
AV女優から俳優へ転身する例は多いが、長い時間をかけて演劇の現場に根を張った存在として、及川奈央は独自の位置にいる。
蒼井そら――中国で「最も有名な日本人」の一人になったAV女優
蒼井そらは2002年にAVデビュー。
親しみやすい笑顔と明るいキャラクターで人気を集め、日本ではバラエティー番組やドラマにも出演した。しかし彼女を本当の意味でレジェンドにしたのは、中国を中心とする海外での知名度だ。
中国では「蒼井空」の名前で知られ、微博のフォロワー数は一時1800万から2000万人近くに達した。中国の映画やドラマ、音楽活動にも進出し、現地メディアから日本を代表する著名人の一人として扱われるまでになった。
現在はタレントや俳優として活動しながら、双子の母としての日常も発信している。美容関連事業にも参加し、公式SNSやYouTubeでは仕事、育児、海外での経験などを紹介。中国を中心とした海外人気も健在で、現役時代とは違った形で国際的な知名度を生かしている。
結婚発表に80万件以上の「いいね」
2018年に結婚を公表した際、中国の微博に掲載した投稿には80万件を超える「いいね」が集まった。
単にAV作品で知られているだけなら、結婚という個人的な出来事がこれほど大きなニュースにはなりにくい。蒼井そら本人の人生まで見守るファンが、海外に大量にいたことが分かる。
本人は中国語を勉強しながら現地で活動しており、SNSには称賛だけでなく誹謗中傷も届いた。
ある時、蒼井そらを批判する投稿に対し、年配の女性ファンが「彼女は自分をさらけ出して活動している」と擁護してくれたという。その言葉を見て、悪意のあるコメントよりも応援してくれる人の言葉を覚えておこうと思うようになったと語っている。
日本のAV女優をアジア圏の芸能スターへ変えた人物。その国際的な影響力では、歴代でも別格の一人だ。
夏目ナナ――累計売上30億円と語られるSODの看板女優

夏目ナナは2004年、ソフト・オン・デマンドの専属女優としてデビューした。
華やかな顔立ちと抜群のスタイルに加え、関西出身らしい明るいトークも人気。メーカーが専属女優を大々的に宣伝し、新作をイベントのように売り出していたセルDVD全盛期の象徴となった。
出演作品の累計売上は30億円と紹介されており、SODを代表するスターとして短期間に大きな実績を残した。
現在はSNSを通じて近況を発信。釣り、ボートレース、ダイビングといった趣味に加え、小鼓やお囃子など日本文化の稽古に取り組む姿も公開している。セルDVD時代の華やかな看板女優から、現在は趣味や日常を楽しむ自然体の姿へと変化した。
ラベンダー畑でハチとブユに襲われた
夏目ナナが後年明かした撮影秘話には、AV撮影の過酷さがよく表れている。
ラベンダー畑で屋外撮影をしていたところ、大きなクマンバチが現れ、出演者とスタッフが撮影中の格好のまま車へ避難。ハチがいなくなって撮影を再開すると、今度は大量のブユが襲ってきた。
夏目ナナはお尻を30か所ほど刺され、跡が残った状態で別作品の撮影に参加。その作品を見たネットユーザーから、肌が汚いと書き込まれてしまったという。本人にしてみれば、仕事中に虫に刺された結果なのだから、かなり理不尽な話である。
累計売上30億円という数字だけを見ると、本人も莫大な金額を受け取ったように思える。しかし本人によれば当時は給料制で、売上の印象ほど大きな収入ではなかったという。
スター女優の華やかな宣伝と、実際の撮影現場や報酬のギャップ。その両方を象徴するエピソードでもある。
吉沢明歩――16年間トップを走り続けた「継続」のレジェンド

吉沢明歩は2003年にデビューし、2019年まで約16年間にわたってAV女優として活動した。
人気女優の入れ替わりが激しいAV業界で、十数年にわたって第一線に残り続けたこと自体が驚異的。本人の著書に関連するインタビューでは、16年間で出演作品351本、写真集10冊と紹介されている。
清楚な雰囲気を保ちながら、時代や作品傾向が変わっても対応できる安定感があった。恵比寿マスカッツでは「あっきー」の愛称で親しまれ、AVを見ない層にも顔と名前が知られるようになった。
AV引退後はタレントやYouTuberとして活動。公式YouTubeでは現役時代の裏話、ゲストとの対談、旅行や日常の動画を公開している。ファンとの交流イベントも継続しており、16年間の現役生活で築いた支持を、引退後も大切に守り続けている。
新人時代の仕事日記が16年後に本になった
デビュー前、所属事務所の社長から、いつか本を出せるように仕事の日記を書いておくよう勧められたという。
吉沢明歩は約2年間、撮影で起きたことや反省点、その時の気持ちを書き残した。引退後に読み返すと、新人時代の自分が想像以上に繊細で、細かなことで悩んでいたことに気づいたそうだ。その記録は後の自伝にも生かされた。
アイドルのセンターなのにリズム感がなかった
幼い頃の夢はアイドルで、森高千里に憧れていた。
恵比寿マスカッツでは後に楽曲のセンターを務め、その夢を実現する。ただし本人によれば、歌とダンスはかなり苦手。必死に踊っているのに、ほかのメンバーより一拍遅れてしまうことがあったという。
AVでは監督の期待以上のものを返そうと努力していた一方、ダンスは努力してもなかなかうまくならない。その不器用さも、ファンから長く愛された理由の一つなのかもしれない。
瞬間最大風速ではなく、16年間選ばれ続けた実績。吉沢明歩は「長く売れることの難しさ」を体現したレジェンドである。
波多野結衣――台湾の交通系ICカードを政治問題にした「世界のハタノ」

波多野結衣は2008年にデビュー。
多数の作品へ出演しながら長期間にわたって人気を維持し、日本だけでなく台湾、中国、香港を中心に高い知名度を獲得した。「世界のハタノ」と呼ばれるほど、海外人気の強いAV女優である。
その知名度を象徴するのが、2015年に台湾で起きた交通系ICカード騒動だ。
波多野結衣の乗車カードをめぐり台北市議会まで紛糾
台湾の交通系ICカード「悠遊カード」に、波多野結衣の写真を使用した限定版が企画された。
公共性の高い乗車カードにAV女優を起用することへ批判が集まり、大手コンビニが販売を見合わせ、市長や市議会まで巻き込む騒動へ発展。カードに使用する写真の出典についても問題が持ち上がった。
それでも電話予約で販売されたカードは即日完売した。
一人の日本人AV女優を起用するかどうかで、市長、議員、教育関係者、女性団体、海外メディアまで動いたことになる。
騒動自体には賛否があるが、波多野結衣が台湾で一部のAVファンだけに知られる存在ではなかったことは明らか。芸能人に近い規模で認知されていたからこそ、社会問題にまで発展した出来事だった。
彼女は現在もセクシー女優として第一線で活動中。
作品出演だけでなく、国内外のイベント、店舗来店、企業とのコラボや配信にも登場している。2008年のデビューから長期にわたり現役を続けながら、海外で築いた「世界のハタノ」という知名度も維持している。
三上悠亜――AV女優から女性向けブランドを作ったSNS時代の象徴

三上悠亜は、アイドルグループでの活動を経て2015年にAVデビューした。
芸能人のAV転身は過去にもあったが、デビュー後も一時的な話題で終わらず、トップ女優として実績を積み上げた。AVの賞を受賞し、音楽活動、YouTube、SNS、アパレルブランドへと活動範囲を拡大している。SNSの総フォロワー数は1000万人を超える規模となった。
三上悠亜の特徴は、男性向けAVの人気を、そのまま女性人気やファッション事業へつなげたことにある。
両親に伝えたのはデビュー発表の10分前
AVデビューは家族にとっても大きな出来事だが、三上悠亜が両親へ連絡したのは、デビュー情報が世間に発表されるわずか10分前だったという。
相談して許可を求めるというより、すでに自分で覚悟を決めた後の報告に近い。
本人は後のインタビューで、アイドル時代を中途半端な形で終えたため、次の場所では必ず結果を出さなければならないと思っていたと語っている。AV女優になってからの方が自分をさらけ出せるようになり、仕事が自分に合っていたとも振り返っている。
女性ファンの質問から自分の服ブランドを作った
SNSへ私服姿を投稿すると、女性ファンから「どこの服ですか」と頻繁に質問されるようになった。
そこで、自分のブランドを作り、ファンから聞かれた時にすべて自分のブランド名で答えられるようにしたいと考えたという。AV女優の知名度を使って適当に商品を売るのではなく、女性の体形をきれいに見せるシルエットや生地にもこだわっている。
メーカーが広告費を使って女優をスターにした時代から、女優本人がSNSでファンを集め、自分の商品や会社を持つ時代へ。
三上悠亜は、SNS時代におけるAV女優の完成形に近い存在だった。
2023年8月にセクシー女優を引退し、現在はタレント、インフルエンサー、YouTuber、ブランドプロデューサー、経営者として活動しています。
あとがき|10人を並べるとAV女優の歴史が見えてくる
今回選んだ10人を年代順に並べると、日本のAV女優がどのように変化してきたのかが見えてくる。
黒木香は、AV女優が自分の言葉で性や社会を語る道を開いた。松坂季実子は身体的な特徴を巨大なスター性へ変え、飯島愛はAV出身者がお茶の間の人気者になれることを証明した。
小室友里はレンタルビデオ時代のクイーンとなり、及川奈央は引退後も俳優として活動を継続。蒼井そらは中国を中心に海外スターとなり、夏目ナナは専属女優を大規模に売り出すセルDVD時代を象徴した。
吉沢明歩は長期にわたって第一線を走り、波多野結衣はアジア圏で圧倒的な知名度を獲得。三上悠亜はSNSとセルフプロデュースを武器に、AV女優からインフルエンサーや経営者へ進む新しい成功モデルを作っている。
レジェンドAV女優は、作品本数や売上だけでは決まらない。
倒産寸前のメーカーを救った女優もいれば、テレビ収録に大遅刻しながら国民的タレントへの道をつかんだ女優もいる。屋外撮影で虫に刺され続けた人もいれば、海外で自分の顔を使った交通系ICカードが発売され、現地の政治家まで巻き込む騒動になった人もいた。
作品に出演するだけだったAV女優の活動は、テレビ、出版、映画、舞台、音楽、海外芸能界、YouTube、ファッション、経営へと広がってきた。
今回選んだ10人は、単に人気があった女優ではない。それまで存在しなかったAV女優像を作り、後に続く女性たちへ新しい道を残した存在である。
時代が変わり、作品を見る方法やスターの生まれ方が変わっても、その功績とエピソードが語り継がれている。そこにこそ、レジェンドと呼ばれる理由がある。






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