雨上がりの葉っぱを、ゆっくりと進むカタツムリ。
のんびりしていて争いとは無縁の生き物に見えますが、その交尾はかなり物騒です。
一部のカタツムリは交尾の際に「恋矢」と呼ばれる硬く尖った器官を、相手の柔らかな体へ突き刺します。
恋矢の読み方は「れんし」。英語では、そのままLove Dartです。
名前だけなら、好きな相手の心を射止めるキューピッドの矢を思わせます。
ところが、実際に行われているのは、鋭い針で相手の体壁を突き破り、特殊な粘液を体内へ送り込む行為。
しかも目的は、交尾相手を喜ばせることではありません。
相手の体を操作し、自分が渡した精子を少しでも多く残すための仕組みです。
雌雄同体の生き物同士が繰り広げる、静かで危険な生殖競争を見ていきましょう。
カタツムリの恋矢とは?

恋矢は、一部の陸生カタツムリやナメクジが生殖器の内部につくる、針や槍のような器官です。
多くの種類では炭酸カルシウムを主成分とする石灰質で、筋肉を持つ「矢嚢」と呼ばれる袋の中につくられ、使用するまで収められています。
形は種類によって異なり、細い針のようなものだけでなく、側面に刃や突起を持つ複雑なものもあります。
ただし、恋矢は精子を送り込むための交尾器ではありません。
精子の受け渡しとは別に使われ、相手の体壁を突き破って、表面に塗られた特殊な粘液を体内へ届けるための器官です。
「矢」と呼ばれていますが、離れた位置から弓矢のように発射するわけでもありません。
相手の体へ密着した状態で、矢嚢の筋肉を使って押し出します。その使われ方は弓矢というより、粘液を塗った注射針や小さな槍に近いものです。
カタツムリは雌雄同体

カタツムリの多くは、一つの体に精子をつくる機能と、卵をつくる機能をあわせ持つ雌雄同体です。
オスとメスに分かれていないなら、精子を渡す側と受け取る側の間で対立が起きることもなさそうに思えます。
ところが、同じ個体が両方の生殖機能を持っていても、交尾中の利益は完全には一致しません。
精子を渡した側は、自分の精子をできるだけ多く保存してもらい、卵との受精に使わせたいところ。
一方、精子を受け取った側には、受け入れた精子の一部を消化したり、複数の相手から受け取った精子を保存したり、後から別の個体と交尾したりする余地があります。
つまり雌雄同体であっても、誰の精子を残すかをめぐる競争は消えません。
恋矢は、その競争を精子提供者にとって有利な方向へ動かすために進化した器官だと考えられています。
恋矢はどのように使われる?

恋矢を持つカタツムリも、相手を見つけてすぐに刺し始めるわけではありません。
まずは触角や口元、体を何度も触れ合わせながら、時間をかけて求愛します。
その後、精子を受け渡す前や交尾中に、体側にある生殖口付近から恋矢を押し出し、相手の体壁へ突き刺します。
一度だけ深く刺す種類もいれば、交尾中に同じ恋矢を何度も使う種類も存在します。
片方だけが恋矢を使う場合もあれば、互いに恋矢を使う場合もあり、恋矢の形だけでなく、刺す回数やタイミングまで種類によってさまざまです。
ただし、必ず狙った位置へ刺さるとは限りません。
恋矢が相手の体壁へ十分に刺さらなければ、表面の粘液を体内へ送り込めません。そのため、恋矢をうまく使えた個体ほど、生殖競争で有利になると考えられています。
本当の武器は矢ではなく粘液

見た目で目立つのは、もちろん硬く尖った恋矢そのものです。
しかし、生殖競争で本当に重要なのは、相手の体につける傷ではありません。
恋矢の表面に塗られている、粘液の働きです。
恋矢が相手の体壁を突き破ると、粘液に含まれる生理活性物質が体液である血リンパへ入り、生殖器官の動きに影響を与えます。
このように、同じ種類の別個体へ作用し、その行動や生理機能を変える物質は「アロホルモン」と呼ばれます。
研究例の多いCornu aspersumというカタツムリでは、恋矢の粘液によって生殖管の筋肉が収縮し、精子を消化する器官へ続く通路が一時的に閉じることが確認されています。
その結果、受け取った精子が消化されにくくなり、精子を保存する器官へ届きやすくなる仕組みです。
つまり恋矢は、交尾相手を興奮させるための飾りではありません。
相手の体内へ生理活性物質を直接送り込み、自分の精子が残りやすい状態へ変えるための道具です。
自分の子孫を残せる確率が2倍以上に

恋矢の粘液が、実際にどれほど大きな効果を持つのかを調べた実験もあります。
研究者はCornu aspersumを使い、恋矢に付着する粘液を注入した場合と、生理食塩水だけを注入した場合を比較しました。
その結果、粘液を注入された相手と交尾した個体は、自分が渡した精子から生まれた子の割合が、対照群の2倍以上に増えています。
この実験では、恋矢を突き刺す行為そのものではなく、粘液だけを注入して効果を調べています。
結果を大きく変えたのは、硬い針による刺激や傷ではなく、粘液に含まれる成分だったということです。
自分の精子を大量に渡すだけでは、その多くが相手の体内で消化されてしまいます。
そこで精子を渡す前に粘液を注入し、精子が保存されやすい環境へ相手の体を変えてしまう。
カタツムリの恋矢は、かなり計算された生殖装置なのです。
刺された相手は再交尾しにくくなる

恋矢の粘液には、精子を残りやすくするだけでなく、刺された個体の次の交尾を遅らせる働きも確認されています。
ヒダリマキマイマイ(Euhadra quaesita)を使った研究では、恋矢の粘液を注入された個体は、その後、別の個体と交尾する可能性が低くなりました。
精子を渡した側からすれば、相手がすぐに次の個体と交尾すると、自分の精子は新しく入ってきた精子との競争へ巻き込まれます。
ところが、相手の再交尾を遅らせることができれば、その間は自分の精子が卵との受精に使われる可能性を高く保てます。
その後の研究では、単に体力を低下させて動けなくするのではなく、交尾へ向かう反応そのものを一時的に弱めている可能性も示されました。
恋矢の粘液は精子の保存方法だけでなく、相手のその後の交尾行動まで変えてしまうのです。
恋矢を刺されると寿命まで縮む

恋矢は刺す側にとって便利な器官ですが、刺される側には負担となります。
コハクオナジマイマイ(Bradybaena pellucida)を使った研究では、交尾相手から恋矢を刺された個体と、恋矢を刺されなかった個体の寿命や生涯産卵数が比較されました。
その結果、実験条件下では、恋矢を刺された個体の寿命が刺されなかった個体の約4分の3まで短くなり、生涯に産む卵の数も減少しています。
単に交尾中の一時的な刺激を受けるだけではありません。
刺し傷による物理的な損傷や、粘液によって生理機能を操作されることが、その後の生存や繁殖へ長期的な負担を与えた可能性があります。
相手を傷つけても刺す側には得がある
自分の精子を受け取った相手の寿命や産卵数を減らすことは、刺した側にとっても損に見えます。
しかし、進化の中で重要になるのは、相手を健康に長生きさせることではなく、自分の遺伝子をどれだけ多く次の世代へ残せるかです。
恋矢を使った直後に、自分の精子が受精に使われる確率を大きく高められるなら、相手が後から受ける損失よりも、刺した側の短期的な利益が上回る場合があります。
そのため、相手に負担を与える器官であっても、恋矢を持つ個体の方が多くの子孫を残せれば、その特徴は次の世代へ受け継がれていきます。
求愛という言葉からは遠い、生殖をめぐる利益の衝突です。
雌雄同体でも性をめぐる争いは起きる

雌雄同体は、精子をつくる機能と卵をつくる機能の両方を持つ生き物です。
しかし、両方の機能が一つの体に入っているからといって、生殖をめぐる争いがなくなるわけではありません。
精子を渡す立場では、なるべく多くの精子を相手に保存させたい。
精子を受け取る立場では、体内へ入ってきた精子を自分に都合よく処理したい。
同じ個体が交尾の中で両方の立場になるからこそ、精子を渡す側と受け取る側の利害が複雑にぶつかります。
恋矢の形や粘液の働きが種類によって異なるのも、刺す側が相手の体を操作する方向へ進化する一方で、刺される側も操作へ対抗する仕組みを発達させてきた結果だと考えられています。
攻撃する器官と、それに抵抗する体。
両者が変化を繰り返すことで、恋矢とカタツムリの生殖器官は複雑な形へ進化してきました。
すべてのカタツムリが恋矢を持つわけではない

恋矢を使うのは、陸に暮らすカタツムリやナメクジの一部だけです。
雌雄同体のカタツムリであれば、すべての種類が恋矢を持っているわけではありません。
恋矢を持つ種類の中でも、その本数や形、材質はさまざまです。
多くは石灰質ですが、石灰質ではない恋矢を持つ種類も知られています。
また、恋矢に関する詳しい研究はCornu aspersumなど、限られた種類を中心に進められてきました。
ある種類で確認された粘液の働きが、恋矢を持つすべての種類へまったく同じように当てはまるとは限りません。
刺す回数やタイミング、恋矢の形、粘液が相手へ与える影響にも、それぞれ違いがあります。
恋矢という共通の名前で呼ばれていても、その中身は一種類の完成された道具ではなく、さまざまな系統で異なる形へ進化してきた生殖器官なのです。
恋矢は愛の証ではなく生殖競争の武器

恋矢という名前だけを聞けば、好きな相手へ思いを届ける、かわいらしい求愛行動に思えます。
実際の恋矢は、相手の体を突き刺し、粘液を注入し、生殖器官やその後の交尾行動まで変えるための道具です。
自分の精子を消化されにくくする。
精子を保存する器官へ届きやすくする。
別の個体との再交尾を遅らせる。
そして、自分の遺伝子を残せる確率を高める。
そこに人間が考えるような愛情や思いやりはなく、あるのは子孫を残すための生殖競争です。
雌雄同体なら、オスとメスの争いから完全に自由になれるわけでもありません。
一つの体に両方の生殖機能を持っているからこそ、精子を渡す側と受け取る側の対立が、同じ交尾の中でむき出しになります。
のんびりと寄り添う2匹の足元で行われているのは、穏やかな恋だけではありません。
硬い針と特殊な粘液を使って相手の体を操作する、静かで危険な生殖戦争なのです。

紫陽花とかたつむり


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