アダルト作品のモザイクはなぜ必要なのか?日本独自の規制と利権のニオイ

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日本のアダルト作品を見ていて、誰でも一度は思うことがある。


なぜ、そこだけモザイクなのか。

大人向けの商品として売られている。出演者もいる。メーカー名もある。ジャンルも細かい。レビューもランキングも存在する。それなのに、肝心な部分になると、画面にザラザラしたモザイクが入る。

かなり妙な文化だ。

しかもこれは、単に日本は性に厳しい国だから、で片付く話でもない。実際、日本のアダルト作品はジャンルの幅だけ見ればかなり広い。欧米のポルノでは避けられやすい演出や、プラットフォーム規約で弾かれやすい企画が、日本の商業AVでは長く流通してきた面もある。

一方で、性器だけは見せられない。

このアンバランスさが、日本のモザイク問題のややこしいところだ。

表向きには法律の問題。もう少し踏み込むと、業界の自主規制の問題。さらに嫌な見方をすれば、審査団体、警察OB、利権、天下りのにおいまで出てくる。

モザイクは本当に必要なのか。


それとも、もう意味の薄い古い仕組みが、誰かの都合で残っているだけなのか。

CONTENTS

モザイクは法律に直接書かれているわけではない

まず押さえておきたいのは、日本の法律に「アダルト作品にはモザイクをかけなさい」と書かれているわけではないということだ。

ここを勘違いしている人は多い。

問題になるのは刑法175条の「わいせつ物頒布等罪」。ざっくり言えば、わいせつな文書、画像、映像データなどを広く出回らせることを処罰する規定である。

つまり法律が直接言っているのは、

モザイクを入れろ

ではなく、

わいせつなものを頒布するな

という話に近い。

では、何がわいせつなのか。

ここが一番の泥沼になる。条文だけを読んでも、どの映像がアウトで、どこまでならセーフなのかは分からない。明確なセンチ単位の基準があるわけでもないし、モザイクの粗さが何ピクセルなら合法という話でもない。

その曖昧さの中で、アダルト業界は「性器がはっきり見えないように処理する」という形を取ってきた。

つまりモザイクは、法律に書かれた義務というより、刑法175条に引っかからないための業界側の防衛策である。

ここからすでに少し変だ。

法律は「わいせつなものを出すな」と言う。業界は「では性器を隠します」と対応する。視聴者は「でも何をしているかは分かる」と思う。

このズレが、日本のアダルト作品に独特の気持ち悪さを残している。

公然わいせつと、わいせつ物頒布は別の話

ここで少し整理しておきたい。

アダルト作品の話になると、「公然わいせつだからモザイクが必要なのでは」と思われることがある。

たしかに、公然わいせつ罪というものはある。これは、不特定または多数の人が認識できる状態で、わいせつな行為をすることを処罰する規定だ。

たとえば、路上、観客の前、一般客が出入りできる場所、あるいは不特定多数に向けたライブ配信のような形で性器露出や性行為を見せれば、公然わいせつの問題が出やすい。

しかし、通常の商業AV撮影は、スタジオやホテル、管理された撮影場所で、出演者やスタッフなど関係者の範囲で行われる。撮影現場そのものが一般客に開かれているわけではない。

そのため、商業AVで主に問題になるのは「撮影現場で公然わいせつをしているか」よりも、完成した映像を販売・配信したときに「わいせつ物を頒布しているか」の方だ。

ここは大事な違いである。

AVのモザイクは、撮影現場そのものを合法に見せるためというより、販売・配信される映像を「わいせつ物ではない」と言いやすくするためにある。

つまり、問題は撮影中の行為そのものより、商品として外に出た映像に何が映っているか。そこをめぐる処理がモザイクということになる。

判例が作ってきた“わいせつ”の曖昧な線

日本のわいせつ規制を語るうえで、よく名前が出るのが「チャタレー事件」だ。

これは、D・H・ロレンスの小説『チャタレイ夫人の恋人』を伊藤整が翻訳し、小山書店から出版したところ、その内容が刑法175条のわいせつ文書にあたるとして問題になった事件である。

今の感覚で見ると、小説の翻訳出版がここまで大きな裁判になったこと自体に驚くかもしれない。しかし当時は、文学作品の中に性描写がどこまで許されるのか、表現の自由とわいせつ規制の境目が大きく争われた。

第一審では、出版者である小山久二郎には罰金刑が科された一方、翻訳者の伊藤整は無罪とされた。ところが控訴審では、伊藤整にも罰金刑が科される。最終的に最高裁も有罪判断を維持し、この事件は日本のわいせつ規制を考えるうえで重要な判例になった。

ここで裁判所が示したわいせつの考え方は、かなり有名だ。

わいせつとは、いたずらに性欲を興奮させたり刺激したりし、普通の人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの。

ざっくり言うと、裁判所は次のような方向から判断する形を取った。


性的な刺激が強いか。
普通の人が恥ずかしい、不快だと感じるか。
社会の性的な秩序に反するか。

ただ、この基準には大きな問題がある。

どれも数値で測れない。

「普通の人」とは誰なのか。「性的羞恥心」とはどの程度なのか。「善良な性的道義観念」とは誰が決めるのか。ここがはっきりしない。

しかもチャタレー事件では、作品に文学的価値や芸術性があっても、それだけでわいせつ性が消えるわけではない、という考え方も示された。つまり、優れた文学作品であっても、性的描写の部分がわいせつと判断されることはあり得る。

この考え方は、アダルト作品にとってかなり重い。

作品全体に企画性や演出意図があったとしても、「性器がはっきり見えている」「性欲を刺激する目的が強い」と見られれば、わいせつ物として扱われる危険が残るからだ。

さらに厄介なのは、時代によって社会の感覚が変わること。


昔なら問題になった表現が、今では普通に流通していることもある。逆に、昔は業界内で見逃されていたような表現が、今は出演者保護や同意確認の観点から厳しく見られることもある。

つまり、日本のわいせつ規制は「ここから先は絶対にアウト」と線が引かれているというより、その時代の社会感覚、裁判所の判断、警察の運用、業界側の自主規制が重なって作られてきたものに近い。

だからアダルト業界は、危ないところを先に隠す。

その一番分かりやすい処理が、性器部分へのモザイクだった。

モザイクを入れれば必ず安全というわけではない。しかし、無修正で出すよりは明らかに摘発リスクを下げられる。裁判でわいせつ性を争うより、最初から見えないようにしておく方が事業としては安全。

こうして日本のアダルト作品では、「何がわいせつか」を正面から争うより、「とりあえず性器は隠す」という処理が定着していった。

言い換えると、モザイクは法律にきれいに書かれたルールではない。

曖昧なわいせつ基準と、それを避けたい業界側の防衛本能が生んだ、日本独特の妥協策である。

AVは“性行為を映している”のか

日本のAVには、もうひとつ妙な建前がある。

それは、作品の中で明らかに性行為が行われているように見えても、映像としては「性器の結合を直接見せていない」という形を取っていることだ。

ここは少し丁寧に見た方がいい。

現在の公的な制度では、AVは単なる「何もしていない芝居」とは扱われていない。AV出演被害防止・救済法の解説では、「性行為」や「性交類似行為」、そして「性行為映像制作物」という言葉が使われている。つまり、制度上もAVが性行為に係る映像であること自体は前提にされている。

だから、今の法律感覚で「AVは建前上セックスしていないことになっている」と言い切ると、少し雑になる。

ただし、映像表現としては別だ。

視聴者には、何が行われているかだいたい分かっている。

出演者も、制作側も、販売側も、もちろん分かっている。

ただ、画面上では一番決定的な部分だけがモザイクの向こう側に隠される。

性行為なのか。
性行為に見える演技なのか。

本当はほとんど答えが見えているのに、映像上だけは最後の確定を避けている。

例えればシュレディンガーの猫に近い。

箱の中で猫が生きているのか、死んでいるのかは、箱を開けるまで確定しない。日本のAVもそれに少し似ている。

モザイクの向こう側で何が起きているのか?

誰もが分かっている。
しかし、画面上では確定していないことになっている。

つまりモザイクは、性器を隠しているだけではない。

「これは本当に性行為なのか」という問いそのものを、見えない場所に押し込めている。

この建前が、日本のモザイク文化の気持ち悪さをかなり分かりやすくしている。

モザイクは、視聴者のためにあるというより、法律上「決定的な部分は見せていない」と言うためにある。そこに、日本のAV特有のねじれがある。

モザイクは本当に“必要”なのか

ここで一度、かなり素朴な疑問に戻る。

モザイクは本当に必要なのか。

未成年が見ないようにするため、という説明ならまだ分かる。しかし、モザイクが入っていても作品自体は成人向けだ。18歳未満が見てはいけないものとして売られている。モザイクを入れたからといって、子ども向けになるわけではない。

性犯罪を防ぐため、という説明もかなり雑だ。モザイクの有無だけで人の行動が決まるなら話は単純だが、現実はそんなに薄っぺらくない。

では、モザイクは何を守っているのか。

建前としては「社会の性的秩序」や「性的羞恥心」を守っていることになる。

ただ、現代の視聴者感覚で言えば、そこにどれほど実質的な意味があるのかはかなり怪しい。

なぜなら、モザイクがあっても作品の内容はほぼ伝わるからだ。

何が行われているかは分かる。構図も分かる。出演者の反応も分かる。隠されているのは一点だけ。そこだけをぼかすことで「わいせつではない」とするのは、かなり形式的な処理に見える。

この形式だけが残っている感じこそ、多くの人がモザイクに違和感を持つ理由だ。

本当に性表現を問題にしているなら、作品全体の演出、出演者の同意、撮影環境、販売方法、未成年アクセスの遮断を重視すべきだろう。性器の見え方だけにこだわるのは、現代のポルノ規制としてはかなり古い。

もちろん、業界側から見れば「古い」と笑って済ませられる話ではない。摘発されたら終わりだ。メーカーも販売サイトも決済業者も巻き込まれる。だから安全策としてモザイクを入れる。

だが、視聴者や表現の自由の観点から見れば、モザイクの妥当性は相当に疑わしい。

必要だから残っているというより、外すリスクを誰も背負いたくないから残っている。

かなり身もふたもないが、実態はこの方が近い。

利権と天下りのにおい

モザイク問題が単なる法律論で終わらないのは、ここに審査団体の存在が絡むからだ。

日本のアダルト作品は、長い間、メーカー側の自主審査団体を通して流通してきた。作品を審査し、販売してよいものかを確認し、モザイクや表現内容をチェックする。その仕組み自体は、表向きには「業界の秩序を守るため」のものだ。

だが、この構図はどうしても疑いを招きやすい。

なぜなら、審査を通さないと流通しにくい。審査には手間も費用もかかる。審査団体には業界に対する影響力が生まれる。そこに警察OBが関わっているとなれば、「これは天下り先ではないのか」「モザイクは利権を維持するための仕組みではないのか」という声が出るのは自然な流れだ。

実際、AV審査団体に警察OBが天下っていると報じられてきたこともある。

もちろん、ここで雑に「モザイクは警察の金稼ぎでしかない」と言い切ると、話が荒くなる。モザイクが存在する直接の理由は刑法175条とわいせつ判例であり、審査団体だけが作ったものではない。

ただし、こうも言える。

刑法175条の基準が曖昧である。
警察の摘発リスクがある。
業界は摘発を避けるために審査団体を必要とする。
審査団体は作品の流通に影響力を持つ。
その周辺に警察OBがいる。

この構造を見たときに、「利権ではない」と言い切る方が難しい。
少なくとも、疑われるだけの形はそろっている。

しかも、審査団体がOKを出したからといって、絶対に安全というわけでもない。過去には、モザイク処理が不十分な作品を審査で通したとして、審査団体側の関係者が問題になった事件もある。

つまり審査団体は、法的な免罪符ではない。

それでも業界は審査に頼るしかない。頼らなければ流通で不利になるし、摘発リスクも上がる。ここに、モザイクと審査団体のいやらしい関係がある。

表向きは自主規制。

実態としては、法的リスクと流通リスクを避けるための通行手形。そう見えてしまう部分はかなり大きい。

モザイクがあるのに、表現はゆるかった日本

ここで面白いのは、日本のアダルト作品が「モザイクがあるから厳しい」とだけ言えないところだ。

性器は隠す。
しかし、企画や演出の幅はかなり広かった。

もちろん近年はかなり厳しくなっている。出演者保護、契約確認、同意確認、公表前の確認、販売停止の仕組みなどが強化され、昔のような雑な制作は許されにくくなっている。

それでも歴史的に見ると、日本の商業AVは、欧米と比べてかなり独自の方向に広がってきた。

欧米では性器そのものは無修正で見せられる一方、暴力的に見える演出、同意が不明瞭に見える演出、出演者が苦痛を受けているように見える演出、未成年を連想させる表現などに厳しい規制がかかりやすい。

一方、日本では性器はモザイクで隠すが、企画の見せ方としてはかなり際どいものが流通してきた。

ここに逆転現象がある。

欧米は「見せる部分」は見せるが、「同意や安全性に問題がありそうな見せ方」には厳しい。

日本は「性器」は隠すが、「ジャンルや演出の幅」は広く残ってきた。

どちらが健全かは簡単に言えない。

ただ、現代の規制として考えるなら、性器そのものを隠すことより、出演者の同意、年齢確認、強要の防止、未成年アクセスの遮断、暴力的演出の扱いを見た方が、よほど実質的ではある。

モザイクのない欧米ポルノは自由なのか

では、モザイクのない欧米ポルノは自由なのか。

これも違う。

欧米とひとまとめにするとかなり乱暴だが、少なくとも「無修正だから何でもあり」というわけではない。

アメリカでは、日本のような商業ポルノ全体へのモザイク文化はない。性器が映っていること自体で直ちに違法になるわけでもない。

ただし、わいせつ表現そのものが完全に自由なわけではない。アメリカでは「ミラー・テスト」と呼ばれる基準があり、作品全体がわいせつと判断されると、表現の自由で保護されない場合がある

この基準では、地域社会の基準から見てわいせつな興味に訴えるものか、露骨で不快な性的描写か、作品全体に真面目な文学的・芸術的・政治的・科学的価値があるか、といった点が見られる。

また、成人向け映像の制作では、出演者が18歳以上であることを確認し、その記録を保管する義務が重視される。ここは日本のモザイク文化とはまったく違う方向の規制だ。

つまりアメリカは「性器を隠せ」ではなく、「未成年を出すな」「年齢確認の記録を残せ」「わいせつと判断される形で流通させるな」という方向に近い。

イギリスもまた、日本とは違う厳しさを持っている。

イギリスにはR18という成人向けの分類があり、これは成人同士の同意ある性行為や強いフェティッシュ表現を扱うための、法的に制限されたカテゴリーとされている。上映できる場所や販売できる場所も制限され、通常の商品と同じようには扱われない。

つまり、イギリスは性器をモザイクで隠す国ではないが、成人向け作品を一般作品と同じ棚に置くわけでもない。

見せるものは見せる。
ただし、販売場所、年齢、流通経路、内容の危険性はかなり見る。

ここが日本との大きな違いだ。

“笑顔で撮影しないといけない”という話の正体

欧米ポルノについて「出演者が笑顔で撮影しないといけない」みたいな話が出ることがある。

これはかなり雑な言い方だ。

正確には、法律や審査基準が「ずっと笑っていろ」と命じているわけではない。

ただ、作品の中で出演者が同意していること、苦痛や強要ではないこと、撤回できない状態ではないことが分かりにくい演出は問題になりやすい。

だから結果的に、出演者が楽しんでいるように見えること、嫌がっていないこと、同意の雰囲気があることが重要になる。

これを乱暴に言うと「笑顔でやっているように見せろ」という話になる。

たしかに、これはこれでかなり奇妙だ。

日本のモザイクも形式的だが、欧米の一部規制にも形式的なところはある。現場の演出として、実際の同意や安全管理よりも「画面上で同意しているように見えるか」が重視されるとしたら、それもまた別種の建前になる。

日本は性器を隠して建前を作る。

欧米は同意や安全性が見えるように建前を作る。

どちらもポルノという商品を社会の中で流通させるための、面倒くさい折り合いと言える。

EUでは年齢確認とプラットフォーム規制が強まっている

近年のヨーロッパでは、モザイクよりも、未成年がオンラインポルノにアクセスできる問題が大きく扱われている。

EUではデジタルサービス法などの枠組みの中で、大規模なオンラインプラットフォームに対して、未成年保護やリスク評価の義務を強めている。成人向けサイトに対しても、単に「18歳以上ですか」とクリックさせるだけの年齢確認では不十分だという流れが強くなっている。

つまり、ヨーロッパの関心は「成人向け映像にモザイクをかけるか」ではなく、「子どもが簡単に見られない仕組みになっているか」「暴力的・搾取的なコンテンツが流通していないか」「プラットフォームが安全対策をしているか」に移っている。

この視点から見ると、日本のモザイク規制はかなり古く見える。

性器の一部をぼかすことにこだわる一方で、ネット上の年齢確認や違法アップロード対策、出演者保護の実効性は別問題として残る。

もちろん日本でもAV出演被害防止・救済法によって、出演契約や公表までのルールは厳しくなった。契約書や説明書面、公表前の確認、撮影から公表までの期間、契約解除や差止めの仕組みなど、出演者を守る方向の規制は強化されている。

これはかなり大きな変化だ。

ただ、それでもモザイク問題とは別の話である。

出演者保護のための規制は必要だとしても、性器にモザイクをかけることが出演者保護に直結するわけではない。むしろ本当に見るべきなのは、契約、同意、撮影環境、販売停止の仕組み、違法アップロード対策の方だ。

日本のモザイクは何を守っているのか

こうして見ていくと、日本のモザイクが守っているものはかなり曖昧だ。

未成年を守っているのか。
出演者を守っているのか。
社会の風紀を守っているのか。
審査団体の仕組みを守っているのか。
刑法175条の古い建前を守っているのか。

おそらく、全部が少しずつ混ざっている。

ただ、今の視点で見れば、モザイクが一番強く守っているのは「日本では性器を見せてはいけない」という形式そのものだ。

本当に被害を防ぐなら、モザイクよりも同意確認の徹底が大事だ。

本当に未成年を守るなら、モザイクよりも年齢確認や配信サイトの管理が大事だ。

本当に違法コンテンツを減らすなら、モザイクよりも無断転載や違法アップロードへの対応が大事だ。

それでもモザイクは残る。

なぜなら、モザイクを外した瞬間に、刑法175条の問題が真正面から出てくるからだ。メーカーも配信サイトも販売業者も、そのリスクを背負いたくない。

さらに、審査団体や業界の流通構造も、モザイクを前提に長く組み上がっている。そこに警察OBや自主規制団体の存在が絡むなら、利権と言われても仕方がない。

もちろん、モザイクをなくせばすべてが良くなるわけではない。

無修正化したところで、出演者保護の問題、違法アップロードの問題、未成年アクセスの問題、過激な演出の問題は残る。むしろ、そちらの方が本質的に重要だ。

ただ、少なくとも現在のモザイク制度は、現代的なポルノ規制として合理的とは言いにくい。

性器だけを隠せばよいという発想は、かなり古い。

そして、その古さの中に、法律の曖昧さ、警察の運用、審査団体の存在、業界の自己防衛、利権っぽさが全部詰まっている。

あとがき

日本のアダルト作品のモザイクは、外から見るとかなり不思議な存在だ。

作品は売っている。ジャンルも細かい。女優名もメーカー名も普通に出ている。レビューもある。ランキングもある。なのに、肝心な部分だけは隠されている。

この不自然さは、日本の性表現規制の歴史そのものに近い。

完全に禁止するわけではない。かといって、完全に自由にするわけでもない。社会の表側に置きながら、最後の一線だけは曖昧に残す。モザイクは、その曖昧さを画面にそのまま貼り付けたような存在だ。

しかも厄介なのは、モザイクがもう単なる規制処理ではなく、日本のアダルト作品の見慣れた風景になってしまっていること。邪魔だと思う人もいれば、慣れすぎて何も感じない人もいる。中には、隠れているからこその想像を含めて日本的だと見る人もいる。

ただ、忘れてはいけないのは、モザイクの正体が「文化」だけではないということ。

その奥には、刑法175条という古い規制があり、わいせつとは何かをめぐる曖昧な判断があり、警察の運用があり、審査団体があり、利権と呼ばれても仕方のない構造がある。

欧米のポルノはモザイクがないから自由、というわけではない。あちらにはあちらで、同意、年齢確認、暴力表現、プラットフォーム規制という別方向の厳しさがある。

それでも、日本のモザイクには独特の古くささが残る。

見ている人には何をしているか分かっている。作っている側も分かっている。売っている側も分かっている。それなのに、そこだけ見えないことにする。

画面の一部にかかったモザイクは、ただのぼかしではない。

日本の性表現がずっと抱えてきた、見せたいけれど見せられないという中途半端な線引き。その象徴みたいなものだ。

そしてたぶん、その中途半端さで得をしてきた人たちも、どこかにいる。

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